第110話 勇み足、skip over

「よし、これで行こう!」


鏡の前でくるりと一回転して後ろ姿まで確かめる。


襟足も撥ねてない。


耳元で揺れるのは控えめなパール。


開襟シャツの胸元を彩るのはセットのネックレスだ。


タイトスカートの皺も確認して、ぐっと拳を握る。


出勤前の亜季のいつも以上の気合の入れように、戸締りをしながら丹羽が苦笑いした。


「出勤というより、出陣みたいだけど?」


「そうよ、今日は出陣よ!」


「ええ、誰と戦うんだよ」


まさか真顔でそんな返事が来ると思わなかった丹羽が目を丸くした。


まあ、普通の反応だろう。


亜季が勤めているのは、地元の優良宝飾品メーカーで、至って健全な上場企業だ。


社内に鬼や悪魔が棲み付いている訳でもない。


それでも、今日は出陣なのだ。


誰がなんと言おうとも。


「・・・佳織の・・敵・・」


敵と言ってしまってよいのかは分からないが、少なくとも亜季にとっては敵以外の何者でもない。


佳織が昔どれだけ焦がれた相手だとしても。


「社内で揉め事でも?」


心配そうな表情になった丹羽の肩をポンと叩いて首を振る。


よほど険しい表情をしていたに違いない。


亜季は自分の両頬をパンと叩いて微笑んだ。


「違う違う、昔の男よ、元カレよ」


「ああ・・そういう・・え、大丈夫なのか?」


「あー別に変な男とかいう訳じゃないの。仕事の出来る、いい男よ。悔しいぐらいにね」


だから佳織は骨抜きになった。


若かったし、佳織の性格を思えば、甘えさせてくれる年上の男性に惹かれてしまうのも無理はないとも思える。


問題なのは相手の男だ。


あの人が、佳織を踏み止まらせてくれていたら、樋口と佳織はこんなに遠回りする事は無かった。


結婚して幸せに暮らしている今となっては過去の事だが、亜季は未だに胸にしこりのような苦みが残っていた。


一番恋に憧れて背伸びをしたい時期の綺麗な佳織を、根こそぎ奪っていったあの男が、どうしても許せない。


仕事上関わる事は殆どないが、それでも時折彼が出張で本社に訪れると落ち着かない気分になる。


佳織も過去と割り切っているし、良い勉強になったなんて言っているけれど。


「いい男・・・」


ネクタイを結ぶ手を止めて、丹羽が柔らかい眼差しに剣呑な色を含ませる。


「客観的に見てって話だから。言っとくけど、あたしは全く好みじゃないし!既婚者の分際で若くて花盛りの部下に手ぇ出すような男、好きになる訳ないじゃない!・・・あ」


勢いでぶちまけてしまった重大機密事項に、亜季がしまったと顔を顰める。


丹羽は片眉を上げて一瞬だけ驚いた表情になったが、すぐに柔和な笑みを戻した。


「聞かなかった事にしておく」


「うん、ごめん、そうして」


旦那様相手とはいえ、大切な親友の秘密をうっかり暴露してしまうなんて、志堂一の情報屋と名高い亜季にとってはあってはならない事だ。


信用第一が売りなのに!


頭を抱える亜季の事を抱き寄せて、丹羽が考えるように呟いた。


「ふーん・・そうか、あの子がねぇ」


佳織をあまり知らない人間は、彼女が恋に溺れて我を忘れる所なんて想像もつかないだろう。


だが、見た目以上に恋愛にどっぷりハマるタイプなのだ佳織は。


一人で生きて行けますという顔をしているけれど、誰より一人が淋しい女だと亜季は思っている。


だから、そういう弱い所をちゃんと見つけて本当の意味で親身になって佳織を愛してくれる紘平と結ばれてくれた事を心から嬉しく思っている。


「意外でしょう?佳織ってね、あんな隙無い見た目だけど、弱い所もあんのよ。


よく泣くし、子供みたいに拗ねたりもするし」


「・・それ誰かさんも同じだと思うけどなぁ」


「あ、あたしは隙は有ります!」


胸を張るところではないかもしれないけれど、丹羽と出会ってから、完全無欠と思われていた自分自身の鎧が、あっけない位脆かった事を思い知らされた。


強がりは 痛々しいだけ アラサーは。


思わず五七五が浮かんで、自分で自分の首絞めてどうする!と悶えそうになる。


「ああ、そうだな。だから油断できない」


意味深な一言共に、丹羽の唇が額に落ちて来た。


「と、とにかく佳織は美人だけと実は可愛いって話だから、それだけの事だからね!」


「亜季も可愛いよ」


「・・・っと、取って付けたような言い方しないで」


「またそういう言い方する。ま、良いけど。そろそろ行かないと乗り遅れるよ、奥さん」


亜季から離れてスーツのボタンを留めながら丹羽が時計を顎で示した。


いつもの出勤時間が迫っている。


丹羽がいる朝はつい油断して遅れそうになりがちなのだ。


「いけない!カバンカバン!」




★★★★★★★




完全に終わった二人だし、樋口は佳織の過去もひっくるめて認めて、愛している。


だから、今日来る日高部長が佳織に会って話をした所で何かが起こる訳もない。


でも、出来る限り佳織と彼の接触は避けたかった。


これは佳織の親友である自分に課せられた使命のような気がした。


綺麗なものを身に着けると、自分がちょっとイイ女になった気がする。


その輝きに見合う自分になろうと、背伸びをするせいかもしれない。


今日の装いは、完全無欠のOLモードだ。


隙無くタイトスカートを履きこなし、且つ地味な印象にならない様に耳元と首元も飾った。


マンションのエントランスを抜けながら、丹羽が亜季の格好を上から下まで確かめて、うんうんと頷いた。


「綺麗だと思うけど、この格好選んだ理由がな・・」


「いいの、戦闘服って重要でしょう?適当な格好で戦に挑めないから」


まるで戦国武将のような台詞を真顔で吐いて、亜季は歩くスピードを速くする。


難なくその速さに歩みを合わせながら、丹羽が苦笑を浮かべた。


「佳織さんを守る武士にでもなるつもり?」


「そうね、出来るなら四六時中張り付いて、あの男が来たら隠したいわ」


「・・ほんっとに時々俺は、佳織さんが凄く羨ましいよ」


「ええ?旦那は妻にのみ粘着質な過保護男になるけど?」


「・・なんでそっちに行くかな」


「あ、ちなみに樋口も悪い男じゃないわよ。樋口じゃなかったら佳織の事任せてない」


これは本心だ。


佳織の面倒を見れるのは樋口だけだと間違いなく思える。


遠回りして、すれ違った二人だからこそ、そう思える。


だからこそ、二人の幸せな生活に水を差すような事は絶対にあっちゃいけない。


日高部長がそこまで子供だなんて思わないけど、あの人の事だから、佳織と樋口の結婚は聞きつけているだろうし、純粋におめでとうを言いに来る可能性だって無きにしも非ずだ。


願わくば、雨上がりのこの青空のように穏やかに澄んだ一日でありますように。


空のどこかに居るであろう神様に祈りなんて捧げてみる。


よし、気合入れなきゃ・・・


こくんと頷いてマンションの敷地を一歩出たら、途端丹羽が亜季の腕を後ろに引いた。


「亜季!水たまり」


「っわ!」


「他所事考えてただろう」


「・・今日の予定を考えてたのよ!」


悔し紛れに言い返して、改めて飛び込みかけた水たまりを確かめる。


飛び越えられるかどうか微妙な大きさの水たまりがアスファルトの窪みに出来ていた。


深さはそんなに無いけれど、嵌ったら間違いなく靴がびしょ濡れになる大きさだ。


迷わず避けて端を通ろうとする丹羽の手を解いて、亜季は助走をつけるために二歩後ろに下がった。


「え、亜季・・まさか・・」


「ゲン担ぎ!」


えいや!と駆け出して、ヒールを鳴らしながら水たまりの直前で踏み切る。


ダン!とアスファルトに足を打ち付ける強い衝撃と、足の裏に走った摩擦熱。


カツン!とヒールが鳴って、ぱしゃん!と水が撥ねる。


傾きかけた亜季の肩を横から支えたのは丹羽の腕だった。


「水たまり飛び越えるとか・・・何考えてるの・・転んだらどうするんだよ、ほんっと心臓に悪い!」


呆れ顔で叱られて、素直に頭を下げる。


確かに大人げのかけらもありませんでした、面目ない。


「ごめん、でも飛べた!・・・あ、でもかかと・・うん、大丈夫!今日は勝てる気がする!」


足首を僅かに濡らした濁り水は無かった事にする。


少し足を浮かせて踵を見たら、さっきの衝撃で踵のソールが削れていた。


結構お気に入りだったのに、と一瞬しょげそうになったが、負けるもんかと前を向く。


「亜季の意気込みは買うけど、佳織さんは立派な大人だし、亜季が先回りしなくても旦那さんもいるだろ?」


「それとこれとは別なの、佳織に出来る事は100%やんないと気が済まないの」


あの時ああしておけばよかった、何て二度と言いたくない。


丹羽が亜季の踵に視線を落として、亜季の眉間を軽く弾いた。


「親友思いなのはいい事だけど、俺の前では片意地張らない事」


「わかってるわよ」


勿論ですよと胸を張って亜季が言い返す。


そんな妻を見下ろして、丹羽が時計を確かめて再び歩き始めた。


今度はしっかりと亜季の手を握って。


「今日、定時?」


「んー残業しても1時間かな?岳明は?」


「俺は出先から直帰」


「いいなー羨ましい」


事務員には滅多に怒らないシチュエーションだ。


「会社まで迎えに行くよ」


「え、ほんと?」


「うん。だから、新しい靴、買って帰ろうか」


丹羽の言葉に亜季がゆっくり瞬きをして、強気な目元を少しだけ和ませた。


「・・・ありがと」


「どういたしまして」


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