第88話 どっちでもいいよ

平日の夕飯は、無理をせず作れる時だけ、というのが暗黙のルール。


丹羽の仕事は、突然のトラブル等で急な残業が入ることもままあるので、作っても無駄になることも少なくないからだ。


家事全般大得意で、胸を張って新妻やってますなんていえるはずもない亜季としては、休日は頑張るから平日は見逃してくださいというのが本音だ。


だから、寒くなって来たし、と言い訳して、ここ最近鍋が増えてきた事にも目を瞑って貰いたい。


元より丹羽は、亜季の料理に文句なんて付けないのだが、それでも定番の白菜や豆腐を切り分けながら、罪悪感を覚えないわけではない。


「はー・・美味かった。ごちそうさま」


「ごまみそ鍋、やっぱりハズレなかったねー。お粗末様でした」


鍋は大人数で、というイメージだったが、いざ二人でやってみると意外と楽しい。


洗い物は少なくて済むし、材料を少しずつ変えればそれなりにバリエーションも増える。


最近はシチュー鍋なんかもあるし、和風だけじゃなくて、洋風にも挑戦するから、良しとして貰おう、と誰にともなく心の中で言い訳をする。


準備も楽だし、手軽だが、難点はつい食べ過ぎてしまう所だ。


満たされた胃袋を撫でつつ、後片付けに立つのも億劫で、ついそのままカーペットの上に横になってしまう。


ちょっと休憩して、お風呂入れながらパパッと洗い物しちゃえばいいし。


「土曜の夜はすっごい本気で料理するから!


食べたいものがあったら聞くわよ?リクエストしてー」


寝ころんだまま拳を天井に突き上げた亜季を、座ったままの丹羽が見下ろして笑う。


「すっごい本気ってどんなの?そこまで頑張らなくていいって言ってるのに。いつも通りのゴハンで十分だよ」


「またそういう事言うー」


「あ、でも、何でもいい、じゃ、亜季もやりがいないか。だったら、ホットプレートで作ってくれたパエリヤが食べたい」


簡単レシピ検索で上位にランキングしていた、お手軽パエリヤ。


此処の所、キッチンの奥に片づけられているホットプレートを思い出して、久しぶりに日の目を見せてやるのもいいな、と思う。


見た目も華やかで、食べ応えもある、その割に簡単なのだ。


「ついでに鶏肉のホイル焼きも作ろうか?岳明、黒コショウ味美味しいって言ってたし」


「うん、あれも美味かったよ。作ってくれる?」


「もちろんよ。喜んで作りましょう!」


無理難題が出てこなかった事にホッとしつつ、頭を主婦モードに切り替える。


ひとまず、明日の出荷予定と、特注の納期調整と、集計報告の資料作成の事は置いておく。


休日は夫婦そろって出かけて、そのまま夕飯を食べて戻ってくる事も多いので、食材は日持ちするものしか残っていない。


となれば、週末の買い出し用のメモを取っておかなくてはならない。


ホタテにエビにムール貝。


彩りにパプリカとピーマンと人参と玉ねぎ。


チキンブイヨンはストックがあった筈、と冷蔵庫の中身を思い出しながら、テーブルの上に置きっぱなしにしているスマホに向かって手を伸ばす。


その手を丹羽が掴んだ。


「ん、スマホ?」


「そう、食材書き留めとかないと、すぐに忘れちゃうから」


善は急げと指先をグーパーする亜季に苦笑を投げた丹羽が、スマホを掴んだまま膝立ちになった。


「もう次の事考えてるの?


亜季はせっかちだな~・・・」


テーブルを回って亜季の隣にやってきた丹羽が、亜季の首の後ろに手を通した。


僅かに顔が持ち上がって、距離が近づく。


「え、なに?」


「週末の事は、週末に考えよう」


「ええ・・でも、食材買い忘れたら困らない?」


「後で一緒に思い出すから・・っと」


足を伸ばして座った丹羽が、亜季の頭をそっと膝の上に降ろした。


「少し休憩しようか」


「っ!!」


真上から見下ろされた亜季が、自分の体勢に気づいて、勢いよく身体を起こした。


「なんで起きるんだよ、ほら、寝なさい」


すかさず伸びてきた右手が、亜季の肩を押さえ込む。


「え、ちょ、だっ、だって!」


「慌てる事ないだろ、あれ、した事無かったっけ?」


「ないです!あるわけないでしょ!膝枕よ!」


言った自分が居た堪れなくなる。


ある意味押し倒されるより心臓に悪い。


「やだ!落ち着かないわよ!」


「俺は落ち着くけど?」


しれっと言って、丹羽が亜季の前髪を掬った。


その指が流れて耳元の短い髪を摘まむ。


吐息交じりの笑みが優しくて柔らかくて、直視できない。


せめてもの抵抗でぎゅっと目を閉じる。


「髪、ちょっと撥ねてる」


「っ!な、直す!」


慌てて右手を持ち上げたが、待ち構えていた丹羽指先が絡め取ってしまった。


「直さなくていいよ」


「で、でも・・」


「亜季が気を抜いてくれてるって分かって嬉しい」


「だらしないだけでしょ」


食べた後すぐにゴロンと横になるなんて、油断しすぎもいいところだ。


ふたり暮らしにも馴染んできて、確かに気は抜けていた。


「だらしないところを見せてくれてるっていうのがいいんじゃない」


「なにに満足してんのよ・・」


「いつもきちんと居住まいを正して、凛々しい外向きの亜季もいいけど。


それはもう十分すぎる程見せて貰ったから」


「・・・どうせあたしは凛々しいですよーだ」


可愛いでも綺麗でもなく、かっこいいが代名詞で生きて来ましたよ。


似たような性格をしている強気の佳織は、綺麗でカッコイイと言われているのに。


色気がちょっと足りなくて、髪がちょっと短いだけで綺麗が端折られてしまうなんて悲しすぎる。


それでも自分の評価は目を背けることなく、甘んじて受け止めてきたつもりだ。


凛々しい、なんて、一番あたしに似合う言葉だっつの。


別に今さらだけど、やっぱり旦那様に言われるとちょっとは凹んだりもする。


不機嫌な声音になってしまっても仕方ない。


亜季の声に、丹羽がくすりと笑った。


耳たぶを撫でた指が、頬の上をするりと滑る。


羽でなぞる位の、ささやかな触れ方に、逆に心臓が落ち着かない。


「ここ最近、漸く遠慮なく膨れるようになったなー」


「膨れるって・・」


「我慢する事無いんだよ。


ここは亜季の家なんだから。


亜季の事悪く言う人間なんていない。


味方しかいないでしょ」


夫婦だけの生活空間なのだから、味方で当然なのだけれど。


それでも、言葉にされるとやっぱり嬉しい。


「俺がいるからって、気を張る事ないから。


思う存分膨れていいよ。


あ、別に進んで怒れっていう意味じゃなくて。


気持ちを押し込めたり、飲み込んだりする必要はないってこと。


どうせ、会社じゃ気を張ってイイカッコしてるだろ」


「イイカッコはしてませんけど!?」


「面倒見が良すぎるって佳織さんが言ってたけど?」


好き好んで誰彼かまわず面倒を見ているわけじゃない。


けれど、勤続年数と年齢が比例して伸びてきた今、後輩から頼られるのはもう当然の事なのだ。


有難いことに、上司の覚えもめでたいので、面倒事に引っ張り出される事も多々ある。


頼られたらノーと言えない自分の性格に嫌気がさす事もあるけれど、それでも引き受けた以上きちんとそれなりの結果は出してきたつもりだ。


どんな理由であれ頼りにされるのは嬉しいし、慕われると悪い気はしない。


同期で一番の親友が同じようなタイプの佳織だった事もあって、ふたり揃うと、社内で右に出る女傑はいないとまで言われてきた。


社内イチの情報通で、工程管理を牛耳っているお局様。


慕われている反面、恐れられている事も知っている。


好きと嫌いは表裏一体だ。


些細な事で女性の評価は覆される。


だから、気を抜けないとも思っていた。


「ほら、そこで険しい顔しない。弱音も愚痴も、ここでしか吐けないんだろ?」


「・・・そんなことない」


「意地張らない事。


亜季はもっと弱っていいよ。


弱い自分が駄目なんてこと絶対ないから。


俺が居る時位、肩の力抜いてみろって。


たまには、家事も休んでひたすら好きな事だけする休日ってのもいいと思うよ?」


「それはすっごい魅力的だけど、後が困るでしょ」


部屋着のまま、レトルト食品とスナック菓子で空腹を満たしつつ日がな一日録りだめしたドラマを見てゴロゴロする。


独身時代、予定のない休日は大抵そんな風にして過ごした。


家から一歩も出ない事もよくあった。


全部のスイッチをオフにして、山下亜季をお休みする日。


思えば、結婚してからこちら、そんな風に過ごした事は一度も無かった。


ふたりで一緒にいられる時間を、最大限に楽しむことばかり考えてきた。


それが正解だと思っていた。


もちろん、それが正解だ、それも、正解だ。


「好きなだけゴロゴロした後、ふたりで手分けして家事しようか」


「・・・」


「考え付かなかったって顔だな。


夫婦ってそういう時の為にいるもんだと思うよ?


一日ぐーたら過ごした位で、損する事なんて無いよ。


仮に損したって思ったら、その後ふたりで取り戻せばいい。


それが出来るのが、結婚生活のいいところなんじゃないの?」


「・・それ・・は」


「という提案をしたいと思うんだけど、奥さん的にはどうかな?


結構魅力的じゃない?」


「・・かなり魅力的です」


「だろ?じゃあ、そうしよう。


ついでに、膝枕が飽きたなら肩貸すよ。どっちでも?」


今度はにっこり笑った丹羽の目を見て、亜季は勇気を出した。


「このままでいて」





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