第9話 都合と事情

「なんでかなぁー!?」


ダン!とグラスのビールをテーブルに戻して亜季は据わった視線で向かいに座る樋口夫妻を見据えた。


新婚ほやほやの樋口邸の素敵なダイニングテーブルに飛び散った水滴を見下ろして佳織はげんなりした。


「いきなりわけわかんないこと言わないでよ」


乾杯の後、黙ってぐびぐびビールを煽ったと思ったら急に意味不明なことを言われても対処に困る。


ペースも早いし味わうというよりは、流し込むような飲み方は身体にも良くない。


「とりあえず、順序立てて話せ。な?ほうれんそう。ほうれんそう社会人の基本だろ」


報告、連絡、相談。


真顔で樋口に言われて亜季がますます顔を顰める。


「会社一辺倒なこと言うな!」


「うーわーお前もう酔ってんの?」


「るっさい!」


噛みつかれて樋口は閉口した。


決して酒に弱くない亜季がこうも管を巻いて酔っ払うのは珍しい。


さてどうすると思案顔の夫の膝をぽんとテーブルの下で叩いて佳織が口を開いた。


適材適所だ。


こういうところは女同士の方が訊きやすい。


「何があったのよー?」


「あんたが悪いのよっ」


いきなりフックが来て、佳織はあちゃーと顔を顰めた。


「こないだのダメになった飲み会かあ」


「そーよー!!なんでよりによってあの日にトラブルかなぁ」


「ほんっと悪かったってば。その穴埋めでこやって招待したんだからほら、飲んで、飲んで。ね?」


「飲むけどー・・」


「で、あの日になんかあったの?」


「そうよー」


「何があったのよ?」


「・・やな男に再会した」


「うん?」


話が見えない佳織に向かって亜季が借り出された合コンで知り合ったやな男と再会したことを告げる。


一部始終を聞いて、先に口を開いたのは樋口だった。


「完全に気に入られてるじゃねーか」


「・・だから・・なんでかなぁ?」


「んなもん、知らん」


「うーわー当てになんない男!あんたってほんっと恋愛事には向かないわ!自分の恋愛で手いっぱいって顔に書いてある!!」


ぴしゃりと言い返された樋口がひくりと頬を引き攣らせた。


「なーこのビール買ってきたの俺なんだけどさぁ」


「うんあ、そう、おかわり」


そんなもん知るかと平然と空のグラスを差し出してやる。


「・・・」


無言で見返された佳織が苦笑して、樋口に向かってアイコンタクトを送る。


”ごめん。見逃して”


あー良いわねー新婚はー目と目で通じ合うんですかそうですか、とぶつぶつ言いながら、お代わりーとテーブルを叩けば。


「へいへい分かったよ」


すごすごと冷蔵庫に向かった樋口を横目に佳織が言う。


「でも、突っぱねたわけでしょう?最初の出会いからして、あまりドラマチックな展開には発展しなさそうな感じなのにねー。逆にそこが相手の記憶に残ったのかしらね?」


「知らないわよ・・もう勘弁してって感じ・・・そもそもあたし、押されて捌けるほど技量持ってないし」


悲しいくらい自分から好きになっては失恋を繰り返して来た人生だ。


残念ながら、自分から恋人にサヨナラを切り出したことは一度もない。


「あーそうよね。あんたの場合、押し切られるのがオチ」


「うっさい」


「だって事実だもーん。あ、紘平!冷蔵庫のチーズとサラミ取ってきて!」


こちらに戻ってこようとした夫に追加注文を通してから佳織が続ける。


「あんたとしては、全くその気はないわけだ」


「あるわけないでしょ!!そもそも・・・そんな簡単に好きになんかなれないよ」


相良のことだってまだふっきれていない、というか、全然引きずっている。


結婚が決まってから徐々に距離を置くようにして、今では相良の愛妻を前にしてもニコニコ笑えるくらいになった。


それでも、やっぱり胸で燻る想いはある。


惚れっぽくはない。


けれど、冷めやすくもない。


一番タチの悪い恋愛パターン。


普通とは違う出会いだったから、この人の前でなら、見栄張っても仕方ないなと思って開き直ってしまった。


そうしたら、一気に楽になって程よい距離感でいたことは確かだ。


マイナスから始まった好感度は一気に上がった。


50%位は回復したと思われる。


けれど、それだけだ。


”嫌なやつ”が”そうでもなかった普通の人だった”という立ち位置に替わっただけ。


そりゃあ、多少は”へー”っと思うようなこともあったけれど。


”次”に繋がる何かを感じたわけでもない。


完全に”これでおしまい”だと思っていた。


たまたま再会したから、美味しいお酒を一緒に飲んで、また別の飲み会で会うかもしれないな。


本当にそれくらい。


送って貰うつもりなんて更々なかったし。


だから、余計困った。


これまでのどのパターンもあの男には通用しなかったから。


「また、なんてあり得ないでしょ」


社交辞令で大人の挨拶。


当たり障りなく、適当に。


それで綺麗に終わりだと思ったのに。


「また、って言われたの?」


「機会があればって逃げた」


「・・亜季にしては上等な切り返しだな。まあ。相手の男にとっちゃ痛かっただろうけど」


注文のメニューをテーブルに並べて樋口が席に戻る。


スライスされたサラミとキューブチーズは樋口らしい大雑把な盛り付け具合だ。


冷えたビールの缶を開けて、グラスに注ぎながら亜季が視線を落とす。


「だって・・・」


「ここでグズグズ言ってるってことは多少なりともあんたも気になったんでしょう?」


「ちがう」


問いかけを綺麗に否定して亜季が首を振る。


「予想外の展開にびっくりしたのよ。ほら、ここ数年全くなかったパターンだからさ。そもそも合コンだって2年ぶりとかよ?色んな事があり過ぎて・・・ちょっと自分の中でも整理できないのよ。それだけ」


「・・・整理しないと、片付けられない位の出来事だったわけか」


「・・・」


樋口の指摘に亜季が驚いたように目を丸くする。


そういう考えは全くなかったらしい。


「・・からかわれただけだと思う。女に困るタイプじゃなかったし」


「下心ある相手なら、もっと強引に出たと思うけどなー」


佳織が問いかけるような視線を樋口に向けた。


テーブルの下で重ねられた手が一度解かれて指が絡められる。


「まあ・・・その気になりゃあ・・・酔ってたんなら、送るふりしてどっかに連れ込めるわけだし?」


「それは無いよ」


きっぱりと亜季が言いきった。


「なんで言いきれるのよ」


「だって、そういうことする人じゃないもん」


「あ・・あんたねェ!1回や2回会っただけの相手の何がわかるってーのよ!?そんなのわかるわけ・・」


「ちゃんと相手と喋ってあたしがそう感じたの」


佳織の指先を撫でながら樋口が考えるように口を開いた。


「お前のほうの私的感情と事情は置いといて。話聞く限り、お前結構その男のこと普通に気に言ってんじゃねえの?男としてじゃなく、人として」


「・・・あ・・そうかも・・」


意外と身近に落ちていた答え。


そうか、純粋に彼は”良い人”だと思っていたのだ。


この間のほんの数時間で。

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