第26話 スパイス不要
打ち合わせ、接待、資料作成に経費処理。
二週間先まで埋まっているスケジュールは、何度見返しても覆りそうにない。
当分会社と家の往復になるから、会えそうにない、と付き合い始めたばかりの彼女に告げると、予想通りの大人な反応が返って来た。
”体調崩さないようにね、頑張って!また落ち着いたら連絡して”
物分かりの良すぎる返事は、まさに頭の中でシミュレーションした通り。
拗ねる事も怒る事もなく。
お互いいい歳で、もともと彼女自身がキャリア志向な事もあって、仕事への理解は人一倍ある。
加えて生活の中心に恋愛が来るタイプではないので、会えない時間が続いても二人の間に溝は出来ない。
更に言えば、仕事の顧客と担当という立場で知り合ったので、システムトラブルで取引先に呼び出されて、スケジュールが狂う事がままあるという事情まで理解してくれている。
亜季は手の掛からない大人の恋人だ。
抱える仕事も増えて、部下の面倒も見るようになり、上司から依頼される内容も、売上と顧客増減に直結するものが殆どになった。
年齢に応じたキャリアを積んで来れている自覚もある。
だからこそ、仕事を優先させられる今の状況は、有難くはあっても不満なんてあるわけがない。
ない、筈なのに、最後に連絡をして以降、度々亜季の顔が頭を過ぎる。
彼女も決して暇な立場ではない。
今頃自分と同じように仕事に忙殺されているのだろう、と思うのに。
向けられた労いの感情に物足りなさを感じるなんて、つくづく自分の身勝手さに呆れてしまう。
彼女の真ん中に据えられた軸の何割を、今の自分は支えてやれるのだろう、なんて、当人に訊いたって答えが出ない疑問を思い浮かべてしまう程度には、会えない時間に参ってもいる。
最初の夜に抱いてしまったから、尚更恋しさが増している事も分かっていた。
一番無防備な彼女を知った心と身体は、早くも次の夜を欲しがっている。
あの夜以来ディナーデートを数回重ねただけなので、そろそろこちらも限界なのだが。
離れている間の空白を、亜季が淋しさで埋め尽くしているなんて、絶対に有り得ないけれど。
☆☆☆
事務所スペースから一歩廊下に出ると、柔らかい照明と壁際に設置された飾り棚の鮮やかな花が目に入った。
ほのかに香る優しい百合が、現実感を遠ざけて行く。
いつ来ても非日常を感じさせる空間だ。
「それでは、また何かありましたらご連絡下さい。次のシステムチェックの日時は、いつも通り二週間前にはご案内しますので」
「いつもありがとうございます。次回もよろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いします。では、これで失礼します」
「ありがとうございました」
事務室長の丁寧なお辞儀に見送られて、ホテルのロビーへと向かう。
姿が見えなくなるまで頭を下げ続ける徹底したサービス精神に、どちらが顧客か分からなくなる。
予約システムの定期点検で年に数回訪問する老舗ホテルは、高層階のラウンジとレストランが有名で、食事→宿泊の流れは、この辺りのOL憧れの記念日デートの鉄板プランと呼ばれているらしい。
他にも和食の割烹や、ティーラウンジも入っており、それなりの相手をエスコートする際には非常に役立つ。
この多忙なスケジュールを乗り切ったら、亜季を連れてデートらしいデートをしよう。
まだまだ足りないお互いの情報を交換するためには、時間と会話が必要だ。
好みの酒の種類だけじゃなくて、好きな食べ物や、苦手なもの、憧れの場所や、出会う前のこと。
幸い最上階のラウンジは、酒の種類もかなり豊富で、洋酒は勿論、焼酎や日本酒も取り揃えてある。
淋しくさせた罪滅ぼしに、なんて言ったら、気にしないで、とか言いそうだけど。
さて、どうやって誘おうかな・・
もっと仕事に余裕がある時期なら、付き合いたての楽しいひとときを二人で過ごせた筈なのに。
溜息を零しそうになって、下げた視線の先に社名入りの紙袋を見つけて、慌てて思考を引き戻した。
アポが3件、報告書と、会議用の資料作成・・・
ちょうどチェックアウトの時間帯で、これから清算作業や居室掃除でスタッフが手薄になる前にシステムの稼働確認が無事終えられた事にホッとしつつ、強引に次の予定を頭の中で確認しながら廊下を抜けると、エレベータホールに出た。
ここに来る時はいつも地下の従業員用の予備の駐車スペースに車を停める。
エントランス裏に回って階段を降りる事も考えたが、ちょうど下りて来るエレベーターに気付いて、丹羽は呼び出しボタンを押して、そのまま待つ事にした。
他の階に止る事無く真っすぐ高層階から降りて来るエレベーター。
高層階になればなるほど宿泊費が跳ね上がる事も知っている。
泊って行こうか、なんて冗談めかして亜季に投げれば、ぎょっと目を剥くであろうことは火を見るよりも明らかだ。
ホテルが嫌ならそのまま部屋に連れて帰ればいい、いや、その方がハードルが高いか・・・
悩み始めた丹羽の目の前で、到着したエレベーターのドアが開いた。
うつむき加減でエレベーターを降りて来たその人物から目が離せない。
足元を確かめた後で、ふいに彼女が顔を上げる。
真っすぐに射貫くような視線を向けている丹羽と、ばっちり目が合った。
時刻は朝の10時。
タワーホテルの高層階から降りて来た妙齢の女性。
「・・・え、岳明・・・」
こんな所で恋人と鉢合わせするなんて夢にも思っていなかったであろう亜季が、唖然とする。
心底驚いた表情の彼女を正面にすると、色んな螺子が飛んだ。
「もしかして、浮気?」
「・・・はい?」
いや、もしかしなくても浮気だろう。
相手の男はきっと先に部屋を出ていったのだ。
そうに違いない。
道理で亜季からの連絡が来なかったわけだ。
淋しさを紛らわす為の相手だったのか、それとも満たされない気持ちを埋めるための相手だったのか。
浮気なんて出来るタイプじゃない。
それだけは短い付き合いの中でも分かっていた。
浮気じゃない、なら、それは。
10日ぶりに顔を合わせた恋人から発せられた言葉が、浮気を疑う発言だなんて信じられない。
困惑を露にした亜季が、思い切り眉根を寄せる。
けれど、彼女の様子を慎重に伺う余裕なんて、とっくに消えてなくなっていた。
二歩で距離を縮めて、亜季の手首を捕まえると引きずるようにエレベーターに乗り込む。
B2のボタンを乱暴に押した丹羽の隣で、訳が分からない亜季がなに!?ちょっと!と非難の声を上げるが無視した。
到着した薄暗い地下駐車場のエレベーターホールから抜け出すと、やっと亜季の手首を解放する。
見下ろした視線の先では、亜季が顰め面のままでこちらを睨み付けていた。
「いきなりなんなのよ!?浮気って・・浮気なんて・・・んぅ!」
脳裏にちらつく見た事も無い男の影に苛立って、目の前の顎を捕まえて唇を重ねた。
柔らかい感触に、どろどろとした独占欲が噴き出してくる。
「朝まで一緒だったの?・・それとも」
「ち、違うっ・・は、話聞いて・・っちょ・・んっ」
必死に腕を掴んで訴える亜季を押し込めるように抱きすくめて、もう一度強引にキスをした。
そろりと舌先をなぞれば、びくんと震えた亜季が俯いて逃げようとする。
短い襟足を撫でながら仰のくように項を押さえれば、素直に応えた。
愛情の比重はまだこちらにあるのだと錯覚しそうになる。
上顎を擽って歯列を辿ると、奥で固まっていた亜季はゆっくり、けれど確実に舌を絡めて応えて来た。
まともな会話も無いままに貪るように重ねた唇だけを味わっていると、ふいに携帯が鳴った。
「っ!ちょ、待って、待って・・会社!」
慌てたように亜季が丹羽の胸を突いて距離を取る。
憮然としつつも腕を解いた丹羽から数歩離れて、亜季が携帯を耳に押し当てた。
「はい、もしもし。すみません、大丈夫です、ちゃんとプレゼントは預かって貰えました。ランチの最後にケーキと一緒に出して貰うように頼んでます。はい・・はい。いえ・・ちょっと知り合いと会っちゃって立ち話を・・すみません、すぐ戻ります、はい」
ペコペコと頭を下げて通話を終えた亜季が、ぎろりと丹羽を睨み付ける。
「さっきから浮気浮気って・・あんたが言う通り浮気してたなら、その相手はこのホテルのティーラウンジの女店長って事になるけど?それでもいい!?」
「・・・ティーラウンジ・・?」
「今日のランチで寿退社する後輩のサプライズ送別会するの!今プレゼントをお店に預けて来た所!」
「・・・えっと・・それは、お疲れ様」
「あたしは彼氏が仕事で忙しい隙を狙って別の男捕まえるような尻軽女だと思われてるってことね!?」
「いや・・その・・」
「何なのよ!会うなり浮気って!失礼にも程がある!」
「それは・・俺が悪かったよ。ごめん。次に亜季と会えたら連れて行きたいと思ってたホテルだったから、まさかそこで本人と鉢合わせするなんて・・しかも朝の時間帯に・・ここに泊まってたんだと思ったら、頭が真っ白になった・・ほんとごめん」
情けないやら恥ずかしいやらで居た堪れない気分で額を押さえる。
「・・と、とにかく、誤解だからっ浮気とかあり得ないから」
「うん・・それはもう・・嫌って程分かってるから・・・ごめん」
「じゃ・・あ、いい・・けど・・・びっくりしたし、怖かったんだから!」
「うん・・ごめん。時間取って絶対埋め合わせするから・・勘弁して」
そっと手を伸ばすと、亜季がおずおずと丹羽の手を握り返した。
そのまま優しく抱き寄せると、ちゃんと腕の中に収まってくれる。
その事に何よりホッとする。
「美味しいお酒飲ませてくれる?」
「勿論。ついでに夜景が見える部屋も押さえるから、泊まって行こうか」
「え・・っと」
「ほんとは、いつ誘おうかってずっと考えてたんだ。何となくタイミング測ってたらこんな事になった。こんなに会えないつもりじゃなかった。自分でも驚いてるけど、実は結構参ってる」
ぽつりと漏らせば、亜季が身動ぎして丹羽を見上げて、そんなのあたしもよ、とため息交じりに笑った。
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