第105話 薔薇はきみに

何度かうっすらと目を覚ました記憶はある。


起きようか迷う前に次の眠気に襲われてその都度記憶が途切れた。


多分3度寝くらいはしたと思う。


布団を頭まで被ってそのままの体勢でごろんと寝返りを打つ。


名残の怠さと腰の痛みを覚えて、亜季は思わず眉根を寄せた。


頭の中を駆け巡る一連の出来事。


終始丁寧に扱われた事は間違いないけれど、その分昨夜の丹羽は執拗だった。


最後に時計を見た時には夜中の2時を過ぎていて、亜季の視線に気づいた丹羽がぼんやりと頭の回らない亜季の耳元で”まだ、2時だよ”と囁いた。


”も、う、2時”


言い含めるように返したけれど、伸びて来た腕に捕まってそのままなし崩しになったので、真面な会話をしたのはそれが最後という事になる。


なんかもう色々思い出してベッドから出たくないし、体調的にも出られない。


寝返りのせいで肌触りの良いタオルケットが背中からずれた。


もう一度元の体勢に戻ろうとした矢先に、背中を包み込むようにタオルケットが戻された。


「え!?」


潜っていたタオルケットから顔を出した亜季と、こちらの様子を伺う丹羽の視線がばっちり合った。


「起きてたんだ?」


「なんでいるの!?」


「その質問昨日も訊いたけど・・・亜季、昨夜は・・っていうか朝方まで、ごめん」


眉を上げた丹羽が、神妙な表情で視線を下げた。


その態度が、さらに亜季の羞恥心を搔き立てるなんて本人は想像もしていないだろう。


「ちょっと!言い直さないで!!それからそこ謝んないで!」


合意の上の行為であって多少の行き過ぎた感はあったとしてもそれはもう夫婦なのだから、折り合いを付けるのが大人というやつだ。


むしろ蒸し返される事の方が困るし、居た堪れない。


「いや、でも・・」


「あ、うん。腰は痛いし身体は怠い!」


けれど、現状亜季の身体に不都合が生じている事は事実だ。


所謂結婚初夜だってこんな事にはならなかった。


ある程度お互いの事が理解できる所まで距離を詰めて来た、今だからこその恥ずかしさもある。


亜季自身に至ってはほぼ8割は丹羽に掌握されている。


残りの2割は、意地とプライドだ。


丸裸にされて全部暴かれた。


だから、この状況はもう致し方無い。


素直に応じて答えた自分の身体が限界値を越えたという事だ。


極力冷静にこの現状を整理して端的に答えた亜季の癖の残る髪を丹羽がいつも以上に優しく撫でた。


彼が昨夜の自分の行動をどう思っているのか手に取る様に感じられる仕草だ。


「それは知ってる・・・だから、無理させた。ごめん」


これはあれか、大人の余裕でいいのよ、とか澄まし顔で応えるのが出来るオンナなのか?


いや、だとしたら無理だ、絶対無理だ。


亜季は俯いて首を振る。


「えっと、この話はもう終了で。ね。あと、もうちょっとベッドでゴロゴロしてたい」


「うん。今日は一日寝てていいよ。出かける前に洗濯回したし、掃除はこれからしておく。


そろそろ起きるかな、と思ってたんだけど、思ったより元気そうで安心した。あと、機嫌も」


「・・・お腹空いたんですけどー」


日付が変わる前に軽く食べたデリバリーは、とっくに消化されてしまっている。


亜季がふくれ面で無い事に安堵したのか、丹羽の表情に余裕が出て来た。


探るような眼差しに一気に甘さが加わって、亜季の胸にむずがゆい気持ちが浮かんでくる。


唇を尖らせれば、待ちかねていたように丹羽が軽く啄むキスを落とした。


思わずびくんと肩が撥ねてしまう。


たっぷり眠って抜け落ちた筈の余韻が、まだ身体に残っているらしい。


思わず視線を逸らした亜季の肩を労わるように優しく撫でて、丹羽がベッドの端に腰掛けた。


「サンドイッチとカップケーキがあるよ。どっちを先に食べる?」


甘いものも辛いものも用意している周到さが憎らしい。


しかも両方亜季が欲しがる事を見透かされている。


「サンドイッチ」


「ツナと卵のやつ、好きだろ?すぐ持って来るよ。


あと、アサイーのスムージーも」


「何その女子力高めな品揃え」


「緒方さんが教えてくれた」


「あ、仕事行ってたの?」


何度目かの覚醒で隣が空な事は気付いていたけれど、リビングにでもいるのだろうと思っていたのだ。


「亜季は疲れてよく寝てたから。俺は逆に目が冴えて、それなら仕事して来ようかと思って。起きたら連絡が来るかと思ってたけど・・・ほんとにさっきまで寝てたんだ?」


「・・おかげ様で」


「反省してます」


「本気?」


「それなりに。それより立てそう?」


「た、立てるわよ!多分」


「今夜はちゃんと安眠させてあげるよ、奥さん」


悪びれない笑みを浮かべた丹羽が、立ち上がろうとして、足元に置いていた紙袋から何かを取り出した。


透明のセロハンと優しい若草色の薄紙で綺麗に包装されたそれは、どう見ても花束だ。


「はい、これが一番のお土産」


丹羽が両手でそっと差し出したそれをまじまじと見つめて、亜季はそこにある花に釘付けになった。


ブーケとしては小ぶりなサイズのそれは、男性の両手に収まる位の大きさだ。


是非とも今夜は寝かせて頂きたいし、丹羽の気遣いは嬉しい。


胸を張れるほど立派な妻ではないけれど、その立場を主張させて貰えるのならば、夫から求められれば嬉しいし、身体に残る疲労感さえも愛しい。


女として不器用で不十分すぎる自分を持て余している亜季としては、丹羽が脇目もふらずに愛してくれている事が奇跡のように思えて仕方がない。


だからこそ、丹羽抱かれる事で得られる充足感は、他の何にも代えがたい。


そんな色んな気持ちをどうにか恥ずかしさを抑え込んで伝えようと言葉を選んでいた筈なのに、目の前にある花のせいで、全部が吹っ飛んだ。


「薔薇・・なの?」


開口一番出た言葉は、驚きのあまり感謝でも感動でもなかった。


「薔薇、嫌いだった?」


「いや、待って違うの。そうじゃないの。薔薇って、薔薇よ!?


あたしに薔薇のイメージある!?一番程遠くない!?」


まさか生きているうちに夫から薔薇の花束を貰う事があるなんて夢にも思わなかった。


そもそも自宅に定期的に花を飾るような素敵な習慣を持ち合わせていない。


何がどうして薔薇になったのか丹羽の心境が理解できずにパニックに陥った亜季の眉間の皺を軽く押さえて、丹羽が答えた。


「だから真っ赤な薔薇の花束なんか選んでないだろ」


「そそそうだけど!薔薇・・薔薇・・・」


「薔薇になんか恨みでもある?」


「ないです!あるわけないでしょ!縁遠過ぎてびっくりしただけ!


でも、なんで・・?」


きっと母親も、佳織も、部下たちも、亜季と薔薇をイコールで結び付けたりはしない。


瞬きを繰り返す亜季の目を覗き込んで、丹羽が楽しそうに目を細めた。


「この薔薇の名前聞いたら、もっとびっくりすると思うけど」


「っは?薔薇の名前?」


膝の上に置かれた花束に視線を下す。


咲き初めの初々しく瑞々しい薔薇は淡いレンガ色の素朴な花だった。


私は薔薇です!と自己主張する赤やピンクのよく見る薔薇とは異なって、こうして手元にあっても不思議と違和感がない。


受け取る側としても、身構えずに済む。


けれど、やっぱり薔薇は薔薇だ。


綺麗に大きさの揃った薔薇だけを上品に纏めた花束は、タオルケットの絨毯の上で夫婦のやり取りを黙って見守っている。


「テディベアっていうらしいよ」


「・・・~~っ!!」


よりによってそう来たか!!!


心で盛大に叫びながら膝の上にあった花束をぬいぐるみのように抱え込む。


ぬいぐるみだって亜季のイメージとは絶対に結びつかない。


それなのに、丹羽はこの薔薇を選んだ。


他ならぬ亜季の為だけに。


「薔薇ならリビングかな?とも思ったけど、ベッドサイドに飾ってもこれなら浮かないだろ?」


俯いた亜季の後ろ髪を相変わらずの優しい手つきで撫でながら、ご機嫌を伺うように丹羽が問いかける。


耳障りのよい声は、ただただ柔らかく亜季の心を包み込む。


昨夜、彼が亜季にだけ見せた熱情は、幻のようだ。


「花瓶なんか無いわよ」


「だから小さめの花束にして貰ったんだよ」


「ムカつく位気の利く旦那ね」


「そこは怒らずに素直に褒めてくれよ」


「怒ってない!」


噛みついた亜季の薔薇と髪の隙間にキスを落として、丹羽が立ち上がる。


「はいはい。適当なガラスの器とかなら戸棚の奥にあるだろ?


ご飯持って来るついでになんか見繕ってくるよ」


生花の匂いを間近で嗅ぐのは久しぶりだ。


結婚式の事を思い出して、改めて薔薇に視線を落とした。


「・・ねえ、岳明」


「なに?」


「なんで、この薔薇なの?」


赤薔薇、白薔薇、黄薔薇、薄紅色に紫色、メジャーな薔薇は他にいくらでもある。


振り向いた丹羽が、亜季の顔を見下ろして今日初めて呆れたような顔になった。


それから、真顔の亜季を見返して、再び笑みを浮かべる。


「なんでって、そんなの決まってるだろ。亜季に似合いそうだと思ったからだよ。可愛くて。店員さんに名前聞いた瞬間に即決した。俺は、自分の審美眼は結構信用してるけど?他に質問は?」


勝ち誇った笑みを浮かべる丹羽と一瞬だけ目を合わせる。


何なのよあんたはーっ!


油断したら泣きそうになるので亜季は必死に頬に力を込めた。


「・・・ございません」


「なら良かった」


おまけのキスを額に落として部屋を出て行く夫の後ろ姿をぼんやりと見つめながら、亜季は両手に抱えた花束をそっと胸元に引き寄せた。


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