第106話 primary

夫婦共働きを続ける二人の休日で、唯一手抜きを出来る家事といえば料理だ。


幸いな事に、亜季はお酒が好きだし、弱くもない。


丹羽と付き合って宅飲みしても、悪酔いすることは殆どなかった。


そんなふたりなので、土日どちらかは、出かけたまま外で夕飯を済ませるのが定番になっていた。


出来あい物の総菜を買って家で食べる日も多いが、温め直したり、後片付けの手間を考えると外食の方が断然楽だ。


台所に立つ時間が減る分、夫婦の時間が増えるならそれでよし、と考えて、酒の種類が豊富な店を選ぶようにしている。


若い女性が好むようなカジュアルレストランに行く事はまずないので、どの店も土日でもそんなに混雑しない。


行きしなは散歩がてらに歩いて行って、帰りはタクシーというのも珍しくない。


一駅向こうまでの範囲で、適当な店をぐるぐると回っていたら、いつの間にか好みの居酒屋は制覇していた。


そんなある日、今日の夕飯はどうしよっか?と尋ねた亜季に、丹羽が行きつけの店があるんだけど、と言い出した。


一緒に暮らすようになってから3か月経つが、一度もそんな話は聞いたことが無かった。


「そんな店あったの!?っていうか、何で今まで教えてくれなかったの?」


隠しておきたい理由でもあったのだろうかと、疑心暗鬼になって詰め寄る亜季に、丹羽が苦笑いを返した。


「これまで亜季を連れて行ったような、小奇麗な店じゃないから」


「なにそれ・・そんな理由?


別に大衆食堂でも、油べっとりのラーメン屋でもあんまり気にしませんけど?」


自他共に認める大雑把な性格ですから、とここぞとばかりに胸を張る。


それよりも、丹羽が行きつけというのが気になる。


「それならいいんだけど、ほんとに言い方悪いけどぱっとしない店だから。


あ、でも、味は上手いし、酒の種類も豊富だよ。


大将が、ちょっと愛想が無くて強面なんだけど、一人で行くにはちょうどいい店なんだ」


「よく食べに行ってたの?」


「独身の頃は週に一回くらいは行ってたかな・・・結婚してからは、亜季が飲みに出かけた時に顔を出す位」


結婚後も定期的に佳織と飲みに出かける事がある。


決まって紘平が部署の飲み会に参加する時だ。


2日に一度は顔を合わせえる二人だけれど、電話やSNSでは語り切れない事が沢山ある。


他の女子を連れていく事もあるが、相手のペースに合わせて飲むと、あまり楽しめない。


その点佳織は、亜季と同じくらい酒豪なので、一緒に飲んでも気兼ねなく楽しめるのだ。


亜季は佳織と会っている時間で、随分ストレスを発散させて貰っている。


仕事の愚痴や、ちょっとした夫婦の悩み事など、何もかも包み隠さず話せる相手はお互いだけだ。


その時間があるから、気持ちを切り替えて頑張ろうと思える。


同じように、その行きつけの店で過ごす時間が、丹羽にとってのストレス発散の場ならば、亜季は不用意に立ち入るべきではないと思った。


「ふーん・・そこ、あたしも行っていいの?


岳明がひとりで寛げる場所なんじゃないの?」


丹羽は家でも仕事の愚痴を殆ど零さない。


忙しくても平気な顔をして見せる。


亜季が意地っ張りで可愛げが無くても、どうにか夫婦生活を送れているのは、丹羽の懐の広さに甘えているからだ。


気分転換の場所は絶対に必要だと思うし、一人になりたい時間があるのも当然だ。


もっと若い頃は、好きな相手とは四六時中離れたくないと思う事もあったが、今は、一人の時間があるからこそ、相手を大切に出来ると思える。


だから、丹羽が亜季を気遣って誘いをかけたなら、遠慮する位の配慮はできた。


丹羽が、亜季の顔を見下ろして目を細める。


こうして視線を合わせてゆっくり微笑む瞬間の彼の顔がとても好きだ。


ちゃんと目の前にいる自分を確かめてくれていると感じられる。


「・・・亜季なら、連れて行ってもいいかなと思ったんだけど、どうかな?」


”亜季なら”


丹羽の言った些細な一言に、飛び跳ねたい気持ちになった。


秘密を共有するような特別な感覚。


夫婦だからといって、何もかもを分かち合えるわけじゃない。


でも、丹羽は亜季となら分かち合いたいと言った。


場所はどこでも良かった。


「・・・行く・・行きたい」


こくんと頷いた亜季に、丹羽がうんと頷く。


「うん、じゃあ、案内するよ。


でも、いつもみたいな恰好はしないでいいから」


「いつもって?」


「ほんとにコンビニ行くみたいな気持ちでいいよって事」


となるとデニムとパーカーみたいな格好になる。


「でも、岳明の奥さんとして行くんでしょ?」


「そうだけど」


「じゃあ、とりあえず化粧位はさせてよ。最初位きちんとしていかないと!」


意気込む亜季に、丹羽がほどほどでいいよと笑った。


「こんばんはー」


摺りガラスの古い引き戸を開けて、丹羽が店に入った。


高架下を一本奥に入った裏通りにその店はあった。


隣は時折店を開けているという寿司屋で、その隣は床屋。


二階は歌声喫茶の看板が上がっているが、営業しているのかすら謎だという。


「いらっしゃい」


「いらっしゃいませ!」


低い声に続いて、愛想のよい声が続く。


中に入った丹羽が、亜季に向かって手招きした。


店に足を踏み入れようとした矢先に、野太い声がした。


「久しぶりじゃねーか」


「2か月ぶり位ですよね、丹羽さん」


「ご無沙汰してすみません。今日は、一人じゃないんですよ。亜季」


振り向いた丹羽に呼ばれて、今度こそ中に入る。


薄暗い店内には、古びたカウンターとテーブル席があった。


カウンターの上に置かれたテレビではワイドショーが流れている。


カウンターの中に立っている作務衣姿の中年の男性が、じろっと亜季を見た。


その隣に立っているエプロン姿の若い男性の笑顔で、大将の迫力が中和されていた。


「え!丹羽さんが女の人連れて来るなんて初めてじゃないですか!ねえ、大将!」


「珍しいな」


「わー彼女さんですか?」


「違うよ、俺の奥さん」


「なんだお前さん結婚してたのか」


無表情だった大将の顔に驚きが滲む。


「えええ奥さん!?そうなんですか!?早く言ってくださいよーてっきり寂しい独身だと・・」


「結婚したの最近なんです。妻の亜季です」


「初めまして、亜季です」


愛想よく笑顔を浮かべた亜季を一瞥して、大将が訝し気な顔を丹羽に向ける。


「うちみたいな古い店連れて来て大丈夫なのか?」


「亜季は飲めるんですよ。俺の行きつけの店があるって言ったらぜひ来たいって」


「へえ・・あんた何が好きなんだい?」


「最近は、彼の影響で日本酒をよく飲みます」


「ここはね、大将が地方の地酒を集めてるから、他の店にはない日本酒が沢山飲めるよ。いつもの席いいですか?」


カウンターの奥の角席を指差した丹羽に、大将がこくんと頷く。


「勿論です、どうぞー。おしぼりすぐ用意しますね!


えっと、奥さんは、苦手なものってありますか?今日のお通しは蛸と胡瓜の胡麻和えですけど」


「あ、好きです、大丈夫!えっと、亜季でいいですよ。奥さんてなんかくすぐったいし」


慣れない呼び方をされると落ち着かない。


「じゃあ、亜季さんで・・いいですか?丹羽さん」


「勿論、どうぞ?」


鷹揚に頷いた丹羽が、渡されたおしぼりを亜季に差し出した。


「何飲む?最初はビールにする?」


「せっかくだから日本酒飲みたいんだけど、任せてもいい?」


「いいよ。口当たりのいいやつがいいかなー・・・大将お勧めはあります?」


棚の上に並べられた瓶を眺める丹羽に、大将がちょっと待ってろと奥に下がった。


「常にあんな感じなんだけど、それが逆に気易くてさ。


俺も酒の種類の事であれこれ話すようになるまでは、殆ど挨拶しかしてこなかったから」


「そうなんだ・・でも、なんか不思議と落ち着く」


「そう?じゃあ良かった」


「・・・奥さんって呼ばれたのも初めてだし」


仕事場でも相変わらず山下だし、丹羽と一緒に出掛けても、奥様と呼ばれる事なんてまずない。


丹羽のパーソナルスペースだからこその扱いなのだと思うと、何だか嬉しくなってくる。


緩む頬で丹羽を見上げると、頬杖を突いた彼が肩を竦めた。


「奥さんって呼ばれてて欲しい気もするけど、いいよ」


丹羽が答えると同時に、大将が奥から新しい日本酒の瓶を持って出て来た。


「これなんかどうだ?西の方の酒蔵まで見に行って買ったんだ。


店には出してないんだが、結婚祝いに開けてやるよ。飲んで行きな」


「グラス出しますねー」


「いいんですか?嬉しいです!大将、ありがとうございます!


やった!結婚祝いだって!」


子供のように喜んだ亜季が、グラスを受け取る。


瓶の蓋を開けた大将が、亜季を見つめてから、丹羽に視線を移した。


目を細める仕草を見せた大将に、丹羽がくすりと笑みを漏らす。


注がれた透明な日本酒は、程よい甘味で口当たりのまろやかな酒だった。


乾杯の後、ぐいっと男らしく煽った大将が、いい酒だろうと目を細める。


「すいすい飲めちゃうけど、これは飲み過ぎると駄目なやつね。上質なお酒の味がする」


亜季の言葉に頷いて、大将が棚の上にを指差して、いくつかの名前を上げた。


「同じような飲み口だ」


素っ気なく伝えられた言葉に、亜季はどれにしようかと迷い始める。


楽しそうに瓶を見つめる亜季に、丹羽がしみじみと呟いた。


「こんなにすぐ馴染んでくれるなんて、なんかちょっと複雑だよ」





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