第104話 朱夏佳人~after~
無人であろうと決め込んでいた休日のオフィスに足を踏み入れて、緒方は驚きと共に歩みを止めた。
だんだん強くなる日差しを下ろしたブラインドで遮った涼しいフロアに、いるはずの無い部下の姿を見つけたせいだ。
足音に気づいた丹羽が顔を上げて、緒方に向かって気易い笑みを浮かべる。
「お疲れさまです。高階ほったらかしにして休日出勤とか大丈夫ですか?」
揶揄するような、茶化すような言い方は、丹羽の機嫌が良い証拠だ。
いつも穏やかで柔らかい口調の彼が、上司との会話にからかいを含ませるのは珍しい。
他の人間なら絶対に気付かないだろう。
緒方の最愛の妻であり、良く気が利くと社内でも有名な優月でも分からない筈だ。
会社の名刺ともいえる営業が、自分の機嫌を態度に出すなんて以ての外だから、丹羽は当然そんな下手を打つことはしない。
それでも入社当時から見てきた緒方には、ある程度なら部下の機敏が理解出来る。
そういう点でいえば、今日の丹羽の態度はあからさま過ぎた。
休日出勤で、人もいないので気を抜いているのだろう。
ダダ漏れのご機嫌ぷりを横目に自分のデスクに向かいながら、緒方は質問を返した。
「昨日から向こうの義母さんが来られててな。今日は親子で観劇だと。会場まで送るついでに仕事でもして時間潰そうかと思ってな。お前こそ、可愛い奥さんはどうした?」
当日券が残ってるなら瑛さんもどう?との誘いは丁重にお断りした。
そもそも芝居に興味が無いし、麗しい男装の女優に熱い視線を向ける女性達の間で肩身の狭い思いをする覚悟もない。
緒方の問いかけに、丹羽は左手首を確かめて、そこに腕時計が無いことに気付くと相好を崩した。
飾り気の無いオフィスの壁掛け時計に目をやってから頬杖をつく。
「そろそろ起きる時間ですかね・・何か買って帰らないとな」
時刻は昼の12時過ぎだ。
部下の回答に、休日とはいええらく遅めの起床だな、と呟きかけて、喉元で留めた。
緒方はもう一度丹羽の顔を眺める。
丹羽の超が付くほどのご機嫌ぷりと、細君の現状を聞いて、いやでも状況に察しがついた。
「ああ・・なるほど」
愛用の腕時計を外す余裕もなく、寝室に連れ込んだんだろう。
この時間まで起きられない程抱き潰されたという丹羽の妻の顔をぼんやりと思い出しながら、自席に着いてパソコンを立ち上げる。
入れ替わるように、丹羽が傍らに置いていた書類の束をファイルに綴じた。
「俺はそろそろ引き上げます」
「お前何時から来てたんだ?」
「8時過ぎです。亜季が眠ってから少しウトウトしたんですけど、結局寝付けなくて。熟睡してるのを起こすのも可哀想だから、それなら事務仕事を捌こうかと思って」
「・・余計な事かもしれないけどな。あんまり無理させるなよ」
余所の家の夫婦事情に首を突っ込むつもりなんて毛頭ない。
が、結婚してから時折見せる丹羽の緩んだ表情を見ていると、加減出来ているのか?と問いかけたくなる。
丹羽の妻は役職もあって、部下も抱えるそれなりの立場にある。
丹羽の愛情を受け止めるだけが役割という女性ではない。
嗜めるような柔らかい上司の言葉に、丹羽が叱られた子供のような顔になった。
「いつもは俺が起きると後を追うみたいに目を覚ますのに、今日は完全に熟睡してて・・それが少し嬉しかったんですけど・・そうですね。ちょっと、反省します。確かに、どう考えても昨夜は余裕が無かった・・」
左手首を擦る丹羽の自嘲めいた告白に、痛いところを突きすぎたかな、と緒方が視線を天井に向ける。
文句なしに仕事の出来る優秀な部下も、妻の前ではただの男になるらしい。
身に覚えが無いわけではないので、丹羽の微妙な心境は痛いくらい理解出来た。
「適当にベッドに投げた腕時計が、行方不明で・・今朝出掛け際に気付いたんですよ」
「甘いものでも買って帰ってやれよ」
「それ、緒方さんが高階に使ってる最善策ですか?」
「・・プラスアルファがいるけどな。そこは自分で考えろ」
自分なら如何するだろう?と考えを巡らせ始めた緒方の視線の先で、丹羽がカバンを手に立ち上がった。
「言葉は昨日の夜に散々使い尽くしたんで、綺麗な花でも買って帰りますよ。助言をどうも。警備室には声掛けておくので、戸締まりよろしくお願いします。それじゃあ、お先に失礼します」
緒方に向かって軽く会釈する丹羽の表情は、相変わらず平日には見たことが無い位柔らかくて甘ったるい。
もうその顔で帰れば、奥さん何も言えないんじゃねぇか?
ちらりと思ったものの、花束とケーキの箱を抱えて帰る部下の姿を想像して、緒方は亜季の為にもそれ以上の助言は控えて、帰っていく丹羽の後ろ姿を見送る事にした。
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