第94話 奥さんってどんな人なんですか?
”丹羽さんの奥さんってどんな人なんですか?”
めでたく緒方夫人の座に就いた、元部下の高階優月からの問いかけに、丹羽はしばし答えに迷った。
志堂に努める山下亜季を知る人間ならば、きっとこう答えるだろう。
”仕事の出来る姉御肌の女性”
頼まれたら嫌といえない面倒見の良さと、懐の広さを持っていて、後輩からも慕われているし、上司からの信頼も厚い。
会社にこんな先輩が居たらいいな、のまさにテンプレートのような存在だ。
実際、亜季の仕事ぶりを目にした時は、彼女の事をまさに理想の女性社員だと思った。
こういう女子が一人いると、仕事が円滑に進む。
歯に衣着せぬ物言いと、処理能力の高さと正確さで、社内の情報を牛耳っている頼りになるお局様。
丹羽も、山下亜季に関しては、こう評価する。
飲み会の席でもあったので、他のメンバー的には大っぴらに惚気て欲しかったのだろうけれど、入社2,3年目の新人でもない中堅社員の丹羽としては、そんなところで目立つつもりは毛頭なかった。
”たぶん、高階が憧れるタイプの女子かな”
そう言って、届いた焼酎を口に運べば、案の定、方々からブーイングが飛んできた。
”もうちょっと具体的に言ってくださいよー”
”見た目は?美人系?かわいい系?”
”三歩下がって付いて来るタイプですか?”
”ええ?でも、お仕事されてますよね、奥さん。じゃあ、結構意見ははっきり言う派?”
”丹羽さんが選ぶ女性だから、きっと良妻賢母な奥さんなんでしょうね”
好き勝手な憶測が飛ぶ中で、部長の隣に座っている緒方だけが、にやにやと丹羽を見つめていた。
亜季を知っているだけに、このやり取りは尚更滑稽に見えて面白いんだろう。
茶化されるのも、冷やかされるのも御免なので、早々に話題を切り替えて、最近彼女が出来たばかりの後輩に矛先を向ける。
遠くから突き刺さる緒方の過保護な視線に晒されながら、大人しくオレンジジュースを飲んだ優月が、丹羽の事をちらりを見つめた。
”かっこよくて、可愛い人ってことですね”
この一言には、心底驚いた。
てっきりテンプレートな亜季を想像したと思ったのに。
思い切り目を丸くした丹羽を見つめ返して、優月が怪訝な表情になった。
”あれ?なんか変な事言いました?”
”いや・・・そんな風に想像したんだ”
”え?だって、丹羽さん、面倒見るの好きじゃないですか。
だから、カッコイイだけの女性は選ばないだろうなって・・違いました?”
緒方のお気に入りで、仕事も出来て、良く気が利く子だとは思っていたけれど。
恐るべき観察力だ。
自立した女性は好きだし、好感が持てる。
けれど、最終的に惹かれるのは、鉄壁に見えて、意外な所に隙のある女性なのだ。
やっぱり男して頼られたい願望があるのだろうか?
亜季は大抵の事を自分でこなすし、悩んでも迷っても、ある程度までは自己完結してしまう。
それは、彼女が一人で生きて来た中で培ってきた、自己管理能力の賜物で、否定するつもりは無い。
けれど、それが結婚してからも端々に見え隠れすると、多少複雑な気持ちにもなる。
夫婦としてどこまで踏み込んでいいのか、手探りで距離を読んでいる真っただ中に、はい!答えが出ました!と胸を張られてしまうと、自分の立ち位置に疑問を抱かずにはいられない。
それすらもひっくるめて、亜季なのだと、譲歩して彼女の全部を受け入れたいと格好をつける自分もいる。
けれど、その答えを導き出す前に、隣にいる自分を顧みて欲しいと願ってしまうのも、また事実だ。
あの山下亜季を射止めた男なのだから、相当に懐の広い出来た旦那なのだろうと、妻の職場では噂になっているらしいが、実際のところは、鷹揚な夫を装う事に必死なだけだ。
最近やっと、亜季の手綱の握り方を覚えて、多少強引になる事も増えたけれど、まだまだ夫婦の理解度は浅い。
歩み寄るのではなく、抱きしめてしまいたい自分の願望が、高すぎる望みなのかもしれない。
けれど、歩み寄っている間に、亜季は答えを出してしまいそうな気がするのだ。
だから、出来るだけ懐に入れて、逃がさないようにしたい。
こんな話は、到底優月には出来ない。
”いや・・・違わないよ。女性の目は鋭いな”
尖っていても、拗ねていても、ひねくれていても、やっぱり亜季は亜季で。
強がりも、意地っ張りも、全部彼女の一部だから。
どんな人かと問われれば、本当は一言で答えられるのだ。
勿体ないから言いたくないだけで。
もし、自分と同じ目線で亜季の事を評価する人間が出てきたら、間違いなく、嫉妬してしまうと思うから。
だから、出来るだけ伏せておきたいのだ。
★★★★★★★
「あ、お帰りー」
玄関を開けたら、タイミングよくバスルームのドアが開いた。
亜季が丹羽の顔を見て微笑む。
湯上りの火照った頬が蛍光灯の明かりに照らされて、ツヤツヤと光っている。
飲み会で夕飯は要らないよ、と伝えたら、自分も外で食べて帰ると言っていたから、てっきり女子会で遅くなると思っていたのに。
「ただいま。同じくらいかなと思ってたんだけど、早かったんだ?」
「うん。佳織が、樋口の方の二次会に連行されちゃったから、お開きになったのよ」
夫婦で同じ会社に勤める樋口夫妻は、亜季の話題に一番よく上がって来る人物だ。
次点は、同じく同期の相良直純になるのだが、彼は亜季の元片思いの相手で、話しに出す度に丹羽の表情が影を帯びるので、あまり話題に上らない。
同じ社内にそういう相手が居た事のない丹羽とって、職場での片思いは全く未知の世界で、だからこそ疑心暗鬼にもなるし、お互い結婚して円満な家庭を築いているとは言っても、やっぱり相良直純は要注意な相手だ。
「営業の二次会って大変だろうに」
「うん、まあでも慣れてるし。佳織はよくわかってるから。
あの男は佳織が居ればそれだけでご機嫌だし、他の男が冗談半分でちょっかい掛けようとしたら、即座に牙を剥くからね、安心なのよ。癪だけど」
最後の方は物凄く嫌そうに言って、亜季がバスタオルを頭から外した。
「・・・俺もそうだよ?」
いつもならあっさり聞き流してしまう所なのに、急に自分に置き換えてしまったのは、さっきまでの高階とのやり取りのせいだ。
いきなり話の趣旨が入れ替わって、亜季がきょとんとなる。
無理はない。
自分でも、どうしてそんな事を言ったのか明確な答えが出ない。
一瞬真顔になった亜季が、バスタオルを握って俯いた。
これは意味をきちんと理解してくれたという証拠だ。
酔ってるの?と茶化されるかと思ったけれど、違った。
その事にホッとして、馬鹿みたいに亜季の中に割り込んだ自分の子供っぽさに呆れかえる。
これじゃあまるで子供だ。
俺の事を忘れてない?と目の前で首を傾げるようなものだ。
俺はどこまで貪欲になるんだろう。
ここでごめん、と笑えば冗談にしてしまえるのか?
一瞬迷って、その選択肢はすぐに頭から追い出した。
出来るわけがない。
伸ばした腕はあっさり亜季に届いた。
シャンプーとボディーソープのいい匂いが腕の中で広がる。
酒と煙草と汗の匂いが染みついたスーツに抱き込むべきではなかったと思ったけれど、腕を解く気にはなれなかった。
「・・え・・っと、岳明?・・酔ってるの?」
さすがにこんな所でぎゅうぎゅう抱きしめられればそう思うのが普通だ。
明らかに動揺している亜季の問いかけに、首を振って、まだ湿ったままの髪に唇を寄せる。
「酔ってない」
ちゃんとここまで帰ってこれたし、足もふらつかない。
ただ、思考がぐずぐずになっているだけだ。
「ほ、ほんとに?ちょ、ちょっと?」
ぐてんと亜季の肩に頭を預けて、腰を強く抱きしめる。
狼狽える亜季の項を擽って力が抜けた所で膝裏を掬った。
「なんで!?」
悲鳴じゃなくて、出て来たのは疑問だった。
「なんでって・・・」
抱き上げられて出た質問がそれ?
迷うことなく寝室に向かった丹羽の首に腕を回しながら、亜季が眉根を寄せる。
「いい匂いの奥さんが出迎えてくれたから。歩くより、運んだ方が早いかと思って」
「待って、あたしドライヤーしてないし!」
全力で訴えられたけれど、些末な問題だ。
「後で髪洗った後で、ちゃんと乾かすよ、俺が」
どうせもう匂いが移ってる。
「え、ええ?」
ベッドに下ろされた後も、目を白黒させっぱなしの亜季の前に膝立ちで近づいた。
「今日さ・・飲み会で、緒方さんの新妻に亜季の事訊かれたんだ。
丹羽さんの奥さんはどんな人ですか?って」
「あ・・うん」
「俺はね、答えを濁したんだけどさ。高階、ああ、奥さんが、言ったんだ。きっと、格好良くて、可愛い人なんでしょうねって」
「な、なんかすみません」
思い切り視線を逸らして項垂れた亜季の短い髪を指で払う。
「確かに、そうなんだけど・・」
肩を抱き込んでベッドに倒れ込みながら続けると、亜季がまた声を上げた。
「ええ!?」
「亜季がどれだけ頑張って格好良くしても、俺にはただ可愛いんだよな、と思って。言わなかったけど・・そんな事考えながら帰ったら、亜季が居たから・・っていうのが、本当の理由」
困らせてるのも分かっているけれど、今日だけは甘えさせて欲しい。
丹羽の告白に、亜季がそっと視線を合わせて答えた。
「あの・・えっと、ありがとう」
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