第39話 彼と夏と恋心
夕闇が迫る19時過ぎ。
ようやく太陽が沈もうとしている。
仕事帰りのカップルや、学生達、家族連れが露店の前を楽しそうに通り過ぎて行く。
駅を降りて改札を抜けた所で、亜季は漸くこの事態を理解した。
「お祭りだったんだ・・」
思わずひとりごちる。
この所残業続きで、帰る頃には商店街は店じまいをしてしまっていたのだ。
お祭りの張り紙にも気づかなかった。
提灯をぶら下げた賑やかな商店街には、多くの露店が軒を連ねている。
勿論今日は平日。
明日も仕事はある。
しかも、今日は会う約束なんてしていない。
けれど。
淡い期待を持ってカバンに視線を落とす。
咄嗟に取りだしてしまった携帯が、途端に行き場を無くした。
先週から忙しいと言っていたっけ。
「無理・・だよねー・・」
期待してスケジュールを確かめるまでもない。
大口取引が入って、忙しいと話していたのだ。
お互い大人、それなりに社歴も長い。
仕事にかかる比重は勿論大きくなっている。
それは年々増えて行くもので、責任も期待も一身に背負っている事を、悲しいかな一番理解出来てしまうのだ。
”仕事よりあたしを優先してよ”なんてつまんない事を言えた若い頃が懐かしい。
働かなきゃ生活できない。
当たり前の事。
恋人の機嫌を取るよりもっと重要な事がいくらでもある。
優先順位なんて確かめるまでも無い。
大人になると、相手の都合も事情もある程度理解できるようになる。
折れる、事も、諦める、事も覚える。
だけど。
ちょっと声を聞くだけなら、邪魔にはなんないよね?
一瞬、ほんの少しだけだし・・
誰にともなく言い訳して携帯のリダイヤルボタンを押す。
無機質なコール音に、急に現実に返った。
電話が繋がったら、何て言うんだあたし!!
”お疲れ様、今日も残業?頑張ってね”
”どうしてるかなーと思って”
いや、仕事してるのは確実だから。電話なら夜にすればいい。
急に電話するなんて、何か用事があるとしか思えない。
こういう所でこれまでの自分の恋愛遍歴がいかに乏しいものだったか突きつけられる。、
「どっどーしよ・・」
うろたえ始めた思考は、素敵な妙案を導き出してはくれない。
そのうち無情にもコール音が止んだ。
「もしもし?」
「っ!」
咄嗟に息を飲んだら彼が怪訝な声で問いかけてきた。
「亜季、どうしたの?」
携帯越しに聞こえたのは、キーボードを叩く音。
一気に罪悪感が心を蝕んでいく。
「亜季ー?」
呼びかけても返事をしない亜季に向かって名前を呼んだ岳明が、唐突に言った。
「えらく賑やかだな、今どこなの?」
「え、駅前!」
「あ、今日かーお祭り」
「え!?」
「毎年この時期に、商店街の後援会が寄付してくれって会社に来るんだよ」
「あ・・そうなの・・そっか・・」
「今帰り?」
「あ、うん、あの・・駅前が賑やかだったからね、そういえばお祭りだなーっと思って。岳明どうしてるかなって・・それで、ちょっとだけ・・電話しようかなって。あ、忙しいよね?仕事中にゴメン」
邪魔するつもりは無かったから、仕事頑張ってね、それじゃあね、と早口で言って、電話を切ろうとした矢先。
「行こうか、お祭り」
こちらの気持ちを見透かしたような投げかけに、慌てて首を振る。
「へ、べ、別にお祭りっそんな・・」
必死に言い訳しようとするこちらの様子を面白そうに笑って、最後の決定打が聞こえて来る。
「俺、今から片づけて出ると20時半位だけど、待てる?」
「待つ」
★★★★★★
「よっ・・・と」
部屋の壁に立てかけられた姿見越しに自分の姿を確かめる。
大急ぎで着つけた割には・・うん、いいんじゃないだろうか。
亜季はもう一度襟元を整えてから帯締めを再確認して姿見の前を離れた。
時計を確かめる。
20時20分か、丁度いい時間だ。
電話を切った後、大急ぎで家に帰った。
慌ただしく浴衣を引っ張り出して、洋服は脱ぎ散らかして放置したまま速攻でシャワーを浴びた。
その間に冷房をいつもより低めに設定しておいたので、風呂上がりの肌はすぐに冷えた。
”いつか”着ようと思っていた浴衣。
これを着て誰かと出かけられたら良いな、何ておぼろげにでも考えたのはいつの頃だろう。
2年以上は前な気がする。
それでも、長く着られるようにと流行りの柄ではなくシックな古典柄の浴衣を選んでいたので、今着ても可笑しくない。
髪留めまではさすがに準備出来なかったので、普段は絶対に使わないようなアクセサリー類を入れた箱をひっくり返して
和風のヘアピンを探しだした。
前髪をワックスで流してピンで押さえる。
ベージュ系のアイシャドウで統一していた仕事用メイクを今日はお休み。
浴衣に合わせてパープルの鮮やかな色を目元にのせる。
派手にならないように慎重に指先でぼかして、いつもよりタレ目気味にアイラインを入れた。
「しっとり和風美人・・?言い過ぎか」
なんて1人突っ込みしつつ、口紅を塗る。
それでも口角が自然に上がってしまう。
電話して良かった!!
いや、ちょっと待って・・・浴衣ってやり過ぎか?
でも、こういうチャンスがないときっと着ないし。
めちゃくちゃお祭りに行きたかったのバレバレ?
わー・・普通に駅前で時間潰しておくべきだった?
浮かんで来た今更な疑問符。
これではまるで恋人との初デートに浮かれる女子高生だ。
早鐘を打ち出した心臓を押さえて深呼吸を繰り返す。
「落ち着こう、ん、落ち着いて」
今更着替えられないし、覚悟を決めるしかない。
「よし」
ぽんっと帯を叩いたら思いのほか胸が苦しかった。
久しぶりの着付けである事、降って湧いたお祭りデートへの期待と興奮が相まって、力加減が上手くできなかったようだ。
恥ずかしくて、情けなくて、こんな自分がほんの少しだけ愛おしい。
もう一度、姿見を見てから携帯と、小銭入れと口紅、ハンカチを巾着に入れる。
浴衣は歩幅がどうしても小さくなるので、駅までの所要時間はいつもの倍を予想しておく。
飛び付き過ぎたかな?
もうちょっと悩んだ振りすれば良かった?
馬鹿みたいに恋愛事になると思考回路が回らなくなる。
そして、挙句に気合いを入れて浴衣まで着て、足早に駅前に戻ってる自分。
つい癖で時計を確かめようと左手を翳したら何も無かった。
腕時計は外してきたのだ。
急いだつもりだったけど、下駄はやっぱり歩き慣れ無くて、多分待ち合わせは過ぎているような気がする。
携帯を見るべく右手に提げた巾着を取ろうとしたら、名前を呼ばれた。
「亜季・・・?」
いつもと違う躊躇いがちな呼び方。
そりゃそうだ、彼は亜季が仕事帰りの格好で待ち合わせると思っている訳だから。
「っ・・はい」
振り返って視線を合わせる。
そこで、漸く岳明がホッとしたように微笑んだ。
「別人だったらどうしようかと思ったよ」
「ご、ごめん」
「なんで謝るの」
「え・・あー・・」
「浴衣持ってたんだ」
返答に困る亜季の前髪を撫でてから彼が静かに言った。
お祭りのざわめきが一気に遠ざかって、亜季の耳に丹羽の声だけがこだまする。
「う、うん・・折角だし、と思って」
「仕事片付けて来て、良かったよ」
「え?」
「彼女の浴衣姿見れたしね」
そんな風に言われたら、もう視線は上げられない。
反射的に俯いて、ひたすらにペディキュアの塗られた足元だけを見つめる事数秒。
「じゃあ、行こうか」
亜季の指先を捕まえた丹羽が、いつもより、ゆっくりと歩きだした。
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