第22話 本心
スローモーションのようにゆっくりと離れた唇を無意識に目で追ったら丹羽に移ったグロスに気づいた。
さっきまで自分の唇を彩っていた淡いベージュピンクが、妙に気恥しさを誘う。
慌てて視線を逸らす。
この状況に突っ込む余裕すらない。
「く・・唇っ」
「・・ああ・・」
必死に言った亜季の言葉に頷いて丹羽がおもむろに指を伸ばした。
ホッとした途端、親指で唇を拭われる。
「えっ・・あたしじゃなくって!」
「俺だけとっても同じでしょ。原因はこっち」
あっさり言って上唇と下唇を拭う。
色の移った親指を見て丹羽が呟いた。
「綺麗な色だな」
「・・っ」
そうして手元に置いてあったおしぼりで親指を拭ってから、自分の唇に移ったグロスも同じように落とした。
ばくばく鳴る心臓をどうしようかとパニック状態の亜季とは打って変わって落ち着いた表情で、丹羽が口元を確かめる。
「これで大丈夫・・かな」
「な・・にが」
「色がつく心配もない」
さっきのは亜季にしてみれば完全不意打ちの一回で。
この後に続きがあるなんて当然思わない。
「あの・・だから・・ちょっと・・」
この状況を甘んじて受け入れているあたし、ちょっと待った!
酔ってるとはいえ可笑しいから!流されすぎだから!
「な・・なんでキス?」
呆然と口にした言葉を聞いて、丹羽が呆れ顔で笑う。
「それは、これからゆっくり話すよ」
「ゆっくりって・・」
「そろそろ行こうか」
時計を見て丹羽が立ちあがる。
「あの・・ちょっと!?」
マイペース・・いや強引にも程がある。
この流れで店から出てどうするつもりなのか。
慌てて亜季が荷物を持って立ちあがる。
キスの余韻に浸る暇も無かった。
先に会計に向かった丹羽に何とか追いつく。
「え、ちょっと丹羽さん!お金・・」
おたおたとカバンから財布を取り出したら丹羽がこちらを振り向いた。
「ここはご馳走様っていうトコ」
「あ・・ご馳走様」
反射的に復唱したら、満足げな返事が返って来る。
「どういたしまして」
「ほんとに・・いいの?」
「いいよ」
「ありがとう」
ポツンと言った亜季の手を丹羽がそろりと握った。
そう言われてみれば、さっきもこの手に触れられていたのだ。
ふわふわした意識の中で、何度か爪の先を指の腹が行き来した事を思い出して、また頬が熱くなる。
さっきのキスは嫌じゃなかった。
その事実に、自分が一番驚いている。
自動ドアを抜けたら、繁華街のざわめきが一気に近くなった。
「ちょっと歩こうか?」
振り向いた丹羽が問いかけてきた。
今日初めて丹羽が亜季に尋ねた。
「あるく・・」
言われた言葉を口の中でもう一度確かめる。
つまりまだ帰らないということ。
そして、繋がれたままの手は当分解かれないだろうということ。
目まぐるしく切り替わった現実に、殆ど思考は置いてけぼりのままだ。
「じゃあ、大通りから抜けよう。異人館の方に行って、夜景でも見る?ちょっと坂道だけど、しんどいかな?」
亜季の足元のヒールを見て気遣ったのだろう。
「あの・・ゆっくり歩いてくれる?」
確認するように繋がれたままの手を軽く引けば。
「それは勿論」
穏やかな笑みが返って来た。
大通りを抜けて、店の少ない異人館の並ぶ通りに出る。
レンガ道にレトロな街灯が並ぶ静かな歩道をのんびりと歩く。
丹羽は亜季を逃がすまいとするようにさっきから一度も手を離そうとしない。
余裕のないその手が、亜季に少しだけ安心感を与えた。
いつも飄々として掴みどころのないこの男の弱いところを見た気がするのだ。
「俺も大人だから、本気で前の恋を引きずってるなら、強引に出ようとは思わない。けど・・・途中参戦の男に持ってかれるのを黙って見過ごせないよ?」
「・・途中参戦・・?」
「今日も、こないだの彼に送って貰ったんだろ?」
「・・・へ?」
意味が分からず問い返すと、丹羽が笑った。
「隠さなくてもいいよ。この間の夜、俺が邪魔した男でしょ?楽しそうに車に手を振って見送ってたの見てたよ」
突然繋いだ手に力が込められる。
亜季は丹羽の言葉と今日の自分のこれまでの行動を検証して相違点を見つけ出す。
「今日は、友達夫婦に送って貰ったんだけど・・旦那さんが運転して、あたしと佳織・・その友達が後部座席に座ってたのよ。それに、この間一緒にいた同期ならあれから何も言ってこないし。すんごいごちゃまぜで色々と誤解してたみたいだけど・・納得した?」
「・・・・」
「・・・丹羽さん?」
急に黙り込んだ丹羽が心配になって亜季が丹羽の手を解いた。
一歩先に坂道を上ってから振り向く。
彼の顔を覗き込んだ。
と同時に、伸びてきた右手に左手首を掴まれる。
向かい合った状態でそのまま強く腕を引かれた。
前に傾いた亜季の身体を丹羽の腕が抱きとめる。
受け止められたと感じた次の瞬間、信じられない程強く抱きしめられた。
背中に回された腕が熱い。
額に触れた唇が耳元に下りて、触れた吐息に心拍数が一気に上がる。
「な・・なにっ」
「珍しく形勢逆転されたなぁ・・・俺のしょーもない嫉妬で」
「嫉妬!?・・・したの?」
「・・・うん」
溜息交じりに丹羽が言って亜季の後ろ頭を引き寄せた。
視線がぶつかる。
暗がりでも、どうしてか丹羽の表情が綺麗に見て取れた。
この人の熱っぽい視線の先に自分がいることが不思議で仕方ない。
「好きだよ」
「ほ・・ほんとに・・?」
まだ信じられなくて、問い返す。
と、丹羽がさらに距離を縮めた。
支えていた後頭を押さえたままで街灯の影になるように屈みこむ。
視界に入るのが丹羽一人だけになる。
「・・・っ」
息を詰めたら、予想通り唇が重なった。
けれど、予想と違い唇はさっきのキスのようにすぐには離れなかった。
上唇と下唇を交互に啄ばむような優しいキスが続いて、その度に心臓が跳ねる。
時折亜季の反応を窺いながら、丹羽が項をするりと撫でた。
仰のいた隙に唇の隙間を舐められる。
「・・・っん」
自分でも驚くくらい鼻から抜ける甘い声が零れた。
擽るように舌先で割られて、丹羽が口内に入り込んで来る。
ゆっくりとけれど執拗に上顎を擽られて、腰が震えた。
数年ぶりの大人のキスは、日本酒と相まって亜季の思考をぐるぐるかき回して来る。
息継ぎが思い出せずに、首を竦めれば、僅かに唇をずらして丹羽が耳たぶを優しく撫でる。
息を吸えばまた塞がれて、今度は舌裏を舐められた。
我が物顔で居座る舌が、戸惑う亜季の舌先を絡めとってそっとなぞる。
ご機嫌伺いのような仕草に、堪らなくなって目の前のスーツにしがみ付いた。
応えるように舌先を吸われて、溢れそうになった唾液を飲み込んでやり過ごす。
首筋を撫でた指先が鎖骨を擽って、短い髪を撫でる。
いつの間に気持ちの良い指先を覚えたのか、身体は自然と強張らなくなっていた。
こうなることを考えて丹羽がさっき亜季の唇を拭ったのだと気づいたのは長い長いキスが終わった後だった。
濡れた唇を指先で拭って、視線を合わせたままで丹羽が囁く。
「・・これでもまだ俺の本心を疑う?」
声が掠れている理由を考えたら、顔から火が出そうになった。
「う・・うたが・・えない・・」
キスの余韻で呂律が回らない亜季の髪を撫でて丹羽が吐息で笑う。
頬を擽る熱が、胸の奥をきゅうんと撫でた。
「疑えない?」
「だ・・って・・・あたしそんな余裕なんかないっ・・」
「余裕がないのは結構。余所見されたら困るしね」
きっぱりと言い返されて、改めて経験値の差をひしひしと感じて泣きそうになる。
頷いてしまって大丈夫なんだろうかとほんのちょっと不安になるが、背中に回された腕の心地よさを知ってしまった今、この手を手放すのはやっぱり惜しい。
「あっ・・あたしをなんだと思って・・」
「目が離せない人だと思ってるけど」
「・・っ」
目が離せないとか。
そんなこと言われたの何年ぶりだろう。
戸惑う亜季に向かって丹羽が問いかける。
「で、俺はこの手を離さないでいいのかな?」
「え・・っと」
いつの間にか馴染んでしまっている丹羽の腕の中で亜季が戸惑いがちに呟けば。
「離すつもりもないけど」
「そ・・れは・・」
「付き合おう」
「ほ・・ほん」
「本気かって訊くのは禁止。俺が本気かどうかは、もうわかったでしょ?それとももう一回確かめる?」
さっきまでの長くて甘いキスを思い出して亜季がぶんぶん首を振る。
またあれをされてしまえば、まともに歩ける自信が無かった。
「結構です!」
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