第112話 一番甘いきみのこと

「あああああっまい」


砂糖や蜂蜜の甘さとは少し違う、果実特有の濃厚な甘さが口いっぱいに広がって、亜季は思わず呻いたまま後ろに倒れ込んだ。


これが外だったら大惨事だが、今は自宅で、広々としたリビングに座り込んでいるので問題なし。


休日にしては珍しく夕暮れ時には入浴も済ませて、いつでも寝られる準備は整っている。


ごろんと仰向けになった亜季は、脳内まで染み渡る甘味に悶えた。


興味本位で買ってみた、ジュレ状の桃のリキュール。


部署の飲み会で、若い女の子達が甘いお酒の話で盛り上がっていたので、どんなものかしら?と思って試してみたが、これは想像以上だった。


「すっごい甘い!」


心底吐き出した感想に、隣で日本酒を飲んでいた丹羽が面白そうな顔になる。


「うん、みたいだな」


お酒を飲んだ女子の感想とは思えない位、情緒のかけらも無い表現だったと改めて思う。


でも、ビールや焼酎のキリっとした味が好みの亜季としては、これ以上の表現は無理だった。


『やだー甘いー美味しいー』


この間の飲み会で、可愛い後輩たちが色とりどりのカクテル片手にはしゃいでいたようには出来ない。


よろよろと起き上がって、テーブルに置いたままの瓶を丹羽に向かって差し出す。


「ほんとに甘いから、死ぬほど甘いから、ちょっと飲んでみてよ!わー・・何か脳が溶けそう・・」


「そんなに・・?これって割った方がいいんじゃない?」


「でも、うちの女子たちは、デザートみたいーって飲んでた。シェイクみたいな感覚かと思ったけど、違った・・舐めてた!お酒で甘いのってとことん甘いんだわ。知らなかった・・そっち側は通ってないんだよ・・」


なんだか無性に負けた気持ちになってしまうのはなぜだろう?


思えば入社当時から、九州男児の上司たちに囲まれて、ビールと焼酎で慣らされて来た身体だ。


周りは酒豪ばかりだったし、一番の親友である佳織も、駆けつけ一杯の生中をこよなく愛する女子だった。


デザート感覚でお酒楽しむような素敵女子、いなかったのよ!!


「いじける理由が分かんないから・・・あ・・ほんとだな。これは飲み物って言うより・・・フルーツソースだな」


「待ってた!その反応待ってた!」


食い入るように丹羽のほうを見つめると、苦笑した丹羽が、自分のグラスを差し出してきた。


入っているのは日本酒だ。


無色透明がこんなに恋しく感じるなんて。


有難く頂戴して、砂糖がしがみ付ている口の中を浄化する。


「あー・・これだ。うん。これだわ・・・落ち着く・・」


舌触りの辛さも喉を通る感触も、これだ、という感じがする。


ここ最近の丹羽のブームは地酒で、地方出張の度に、珍しい土地の日本酒を買って帰って来る。


お酒を飲まない奥さんなら、瓶が邪魔-といいそうなものだが、丹羽家は夫婦揃って酒を嗜むので、このお土産に亜季は大喜びだった。


「ケーキはいけるのに・・・甘いものと甘い酒って別なんだな」


返って来たグラスを受け取った丹羽が、亜季もこっちにすれば?と尋ねてきた。


「うん。そっち貰う。別物って初めて知ったわ。カシオレも、ファジーネーブルもジュースだって思ってたから、女子が好きな感じのお酒とはずっと縁遠かったけど、まさかこんな新しいお酒が出来てたなんて・・・うん、確かにデザートよね・・・かき氷とかに・・・」


「あ、バニラアイスあっただろ。あれにかけて食べれば?」


「それいい!!デザートソースとしてなら、食べられる気がする。結構高かったし、飲み切らないと勿体ないし」


消費方法が分かれば一安心だ。


いそいそと冷凍庫からカップのアイスを取り出して、グラスを手に戻る。


「ちょっとあっためてくれる?」


体温が高い丹羽の掌を利用して、解答時間を早める。


理想は、有名アイスのCMにあるような、スプーンがすっと入る滑らかさだ。


「柔らかすぎるとすぐ溶けちゃうだろ?」


「そこは微妙に加減してよ。はい、スプーン。よろしくお願い」


お任せします、とテーブルにスプーンを載せる。


丹羽が、亜季とスプーンを交互に眺めて、目を細めた。


「任されます・・・意地張って自分でどうにかするのやめたんだ?」


「だって自分より力がある人が傍にいるんだから、使わなきゃ損でしょう?」


開き直って言ってやる。


付き合い始めたばかりの頃、風呂上がりのコンビニアイスを急いで食べようとして四苦八苦する亜季に、丹羽が救いの手を差し伸べて来た時には驚いた。


”貸して”


亜季がスプーンを差し込むのも苦労する所を、丹羽があっさりとやってのけたのだ。


固さとの格闘もアイスの醍醐味と思っていたから、誰かにどうにかして貰おうなんて、考えた事も無かった。


ちょっと掌で握って柔らかくなった側面から、上手にスプーンをを差し込んでアイスを取り出す丹羽を横目に、一人じゃない現実がじわじわと広がって行く。


おひとり様は気楽でいい。


何もかも自己責任で、誰にも迷惑を掛けられない。


自分ひとりで完結する世界はどこまでも自由だ。


でも、誰かに甘える事を覚えてしまったから、もうおひとり様には戻れない。


誰かに譲る事、譲られる事を繰り返しながら、自分の世界と相手の世界を混ぜ合わせていく作業は、カチコチのアイスがとろけていく過程に少しだけ似ている。


グラスに綺麗に盛り付けられたアイスに、丹羽がジュレを注ぐ。


こういう所もそつがないから悔しい。


まるでお店で食べる一流デザートのようだ。


「なんかすっごい美味しそう」


「組み合わせは外してないから、美味いと思うよ」


「バニラアイスにフルーツって定番だもんね。はい、あーん」


「先にくれるの?」


「功労者は労わないとね。味見も兼ねて」


「それは光栄だ」


笑った丹羽が、なぜだか亜季の顎を指で掬った。


ぽかんと開けた口に、差し出したスプーンが差し込まれる。


バニラアイスと桃のジュレが口の中で混ざり合う。


あ、美味しい!と思った瞬間、唇が重なった。


「・・・んっ」


当たり前のように差し込まれた舌がぐるりと口内を巡って、溶けたアイスとジュレを舐める。


「ん・・・ふぁ・・」


焼けるようなリキュールの甘さとバニラの冷たさが程よく絡まって舌の上で踊る。


擽るような舌先の動きに、思わず鼻から甘い声が漏れた。


吐息と一緒に抜けていくアルコールに軽く眩暈がする。


歯列を撫でた後で丹羽がそっと唇を離した。


閉じた瞬間に唇を啄まれる。


「ん・・・惚けてると溶けていくよ」


目元を和ませて悪戯っぽく丹羽が言った。


「あ、味殆ど分かんなかったわよ」


「そう?甘くて美味しかったよ。これ当たりだと思うな」


そう言って満足げに日本酒のグラスに口を付ける丹羽の余裕の表情が悔しい。


「・・・」


「なに?今のじゃ足りない?」


「そんなわけないでしょ!びっくりしたのよ!」


大急ぎでバニラアイスとジュレを掬って口に運ぶ。


今度はちゃんとバニラの味も桃の味もしっかりと味わえる。


口内に残る丹羽の感触は極力意識しないようにした。


グラスを手にしたまま、赤くなる亜季を見つめていた丹羽が、空いている手で頬を撫でた。


「っ!」


「もう赤くなってる」


「酔ってないからね。そこまで弱くないから」


「知ってるよ・・だから、これは酔ってるんじゃなくて・・」


身を乗り出した丹羽が、亜季の肩を抱き寄せて頬にキスを落とした。


ああそうか、酔ってるというのが正解だったのか!


丹羽がしたり顔で耳に顔を近づけた。


「俺のせいで赤くなったんだろ?」


耳元はやめて!確信犯!!!


ぎゅっと目を閉じると、丹羽の唇が耳たぶに触れた。


ちゅっとリップ音が響く。


耳朶を掠める熱い吐息が、胸を苦しくさせる。


ちゅっちゅとリップ音を立てながら、唇が短い髪を辿って項へと降りていく。


丹羽の指先は迷いが無い。


抱き寄せた肩をくるりと撫でて、二の腕を滑り落ちる。


Tシャツの襟首に吸い付いた唇が鎖骨に移った。


膝の上でグラスを持つ手に力が入らなくなっていく。


丹羽の唇には、触れた場所から力が抜けていく魔法でも掛かっているのかもしれない。


「岳明・・・っ・・・だめ」


「ん・・・なにが?」


肌に触れた唇はそのままで、丹羽が優しく問いかけた。


あとほんのちょっと力を抜けば、上半身が後ろに倒れ込んでしまう。


残り僅かの力を振り絞って背中で堪えているのだ。


「た、倒れるからっ」


必死に言い返したら、手に持っていた冷たいグラスを取り上げられた。


空になった手にあれ?と思うと、丹羽が背中を抱く腕に力を込めた。


「いいよ」


いうと同時に体重をかけるようにわざと前のめりになってくる。


案の定背中から綺麗に力が抜けてしまった。


そのまま丹羽の腕に身体を預けて、床に倒されると思ったが、いつまでもフローリングの感触はやって来なかった。


代わりに、背中に柔らかいクッションが触れる。


「これで痛くないだろ?」


「・・あ」


いつの間にか、丹羽が手元に引き寄せていたらしい。


日本酒のグラスをテーブルに戻した丹羽が、亜季の顔を覗き込む。


確かめるように指先が輪郭を撫でた。


見つめ合った視線の先で、丹羽がとろけるような笑みを作る。


「じゃあ、俺ももうちょっと、甘いものを味わわせて貰おうかな?」


アイスはもう手元には無い。


亜季の中に残る甘さを欲しがっているのだ。


降って来たキスは、胸やけがするほど甘かった。

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