第111話 余所見厳禁
”いつもの店の前で待ってるから”
常連になっている馴染みの居酒屋。
家から徒歩で行ける距離、且つ、ちっとも小洒落た店ではない。
着古したデニムとTシャツにサンダルでオールオッケーなまさに我が家同然のお店。
にも拘わらず、店内で先に飲んで待つという選択肢を選ばなかったのは、飲み過ぎてしまう心配があるからだ。
勝手知ったる店なので、店員は亜季の好みも熟している。
当然薦めて来る酒も、ドンピシャのものばかり。
ついついベテランのアルバイト君と話が弾んで、丹羽が到着するころには出来上がっていた事も一度や二度ではない。
丹羽は亜季らしいと言って笑って許容してくれるが、妻としては如何なものか。
ましてや今日は、丹羽は休日出勤なのだ。
頑張って働く夫を差し置いて、一人夕方から酔っぱらうなんて、人妻の風上にも置けない。
今日は丹羽を見送ってから、溜まっていた家事をこなして一日を過ごした。
いかにも主婦らしい事をしたので、なんだかいつもよりちょっとだけ奥さんとしての自信が持てた。
お風呂のカビ取りもして、靴箱も綺麗にして、シーツも洗って、シンクも磨いた!
なんか今日のあたしめっちゃ奥様じゃないの!!
ワーホリOLグッバイ!!!
ほんのちょっとだけ、白いフリルのエプロンが似合う奥様に慣れた気がする。
冷蔵庫を開けた時に飛び込んで来たビールの缶に惹かれなかったわけではない。
が、仕事を終えた丹羽との極上の一杯の為に!と我慢した。
夕日が差し込む時間に家に一人でいる事が珍しくて、なんだか落ち着かない気持ちになった。
事あるごとにスマホを気にしてしまって、TVを見ていても落ち着かない。
丹羽が不在の休日は、ひたすらゴロゴロして過ごすか、出かけて外で時間を潰すかのどちらかだったので、こんな風にぽっかり空いた時間をどうやり過ごせばよいか分からないのだ。
ワイドショーとサスペンスをチャンネルを変えながら流し見していたら、漸く待ちかねていた丹羽からの連絡が来た。
”今から帰るよ”
というメッセージに思わずガッツポーズが出てしまう。
朝から夜は揃っていつもの店に飲みに行くという約束をしていた。
”先に店に行ってていいよ。飲み過ぎないように”
亜季の行動を把握しまくった言葉だ。
いつもなら、二つ返事で”はーい”と返すのだが。
今日は違う!!
丹羽が返って来る時間に合わせて、店の前で待ち合わせる事を伝えて、部屋着から着替える。
とは言っても、楽なジャージー素材のマキシ丈のワンピースにパーカーを羽織って、髪は寝癖を直しただけの手抜きな装い。
化粧は薄めにパウダーだけ叩いて、申し訳程度に眉を描いたらお終いだ。
休日は出かけない限り、すっぴん、もしくは超ナチュラルメイクと決めている。
お肌も休ませてあげないと、と言っているが、本音は面倒くさいだけだ。
スマホと家の鍵と財布だけ持って時計を見て家を出る。
コンビニにでも行くような格好で飲みに行けるのは、馴染みの店だけだ。
平日のヒールで慣れた視界から数センチ低いスニーカーの視界は、肩の力を抜いて歩ける。
よし、戦うぞ!というのではなく、目の前にある世界にゆったり流されていくイメージ。
踏ん張ることはせずに、拳も握らない。
多分、丹羽と結婚しなかったら見えなかった世界だ。
あのまま踏ん張って強がっていたら、いつか息抜きの仕方を忘れて埋もれてしまっていただろう。
背中にずっしりと伸し掛かっていた色んなプレッシャー。
年々増えて行く重荷に、負けるもんかと気力だけで立ち向かっていたあの頃。
全部飛び越えられたなんて思わない。
けれど、確実に背中の重荷は減っていた。
無意識のうちに亜季が抱えていたあれこれを、黙って引き受けてくれた人。
結婚して分かった、自分の中の確かな変化。
それは、生きやすくなった事。
自分の事を肯定してくれる人が傍にいてくれるだけで、
世界はずっと優しいものに変わる。
自分で自分を守って来た頃には、感じられなかった事だ。
不安がひとつ減って、安心がひとつ増えた。
ただそれだけの事なのに、その事が及ぼす変化は、亜季の価値観も塗り替えてしまった。
今だって、気負う事が無いわけじゃない。
でも、負けても良い場所がある、そう思えるだけで爪先も踵も痛くなくなる。
背伸びしていた自分を受け入れて、もう一度ヒールを履き直せる。
”身の丈に合う”
自分も、自分の居場所も、全部。
闇雲に戦うだけじゃなく、戦う自分を誇れるようになる。
結局は、ひとりじゃない、という事実。
それだけで、亜季の心は随分と救われた。
馴染みの店の前で待つこと数分。
駅から続く通りの向こうに丹羽の姿が見えた。
信号待ちをしている彼が、亜季に気付いて手を振る。
応えるように大人気なく両手をブンブン振って見せた。
「あれ・・・?」
丹羽が隣で信号待ちをしている男性から声を掛けられている。
雰囲気から察するに道を聞かれたとかいう感じではない。
相手も同じくスーツ姿だ。
知り合いのようで、気さくな雰囲気で話をしている。
遠目から見てもスタイルのよい男性だ。
長身の丹羽と並んでも引けを取らない足の長さと肩幅の広さ。
かっちりしたスーツが良く似合っている。
黒縁メガネがきりりとした印象を与えるいかにもエリートサラリーマン風の人物だ。
丹羽の会社の人間に、彼のようなタイプはいなかった。
二次会で挨拶を交わした学生時代の友人にも然り。
となると・・・取引先の人・・?
だとしたら、こんな砕けた格好で子供みたいに手を振った女が妻だなんてばれたら心証が良くないんじゃ・・?
今更ながらもうちょっと綺麗な格好をしておけばよかったと後悔が押し寄せる。
いや、それより子供みたいに手を振るんじゃなかった。
ちょっとした知り合いで、仕事関係の人じゃありませんように!!
どうかどうか!!と祈る気持ちでいると、信号が青に変わった。
横断歩道を並んで歩いて来るスーツ姿の二人は、かなり目立つ。
そうなの、うちの旦那かっこいいのよ!!!
こんな所で再確認してどうする!?という感じだが、しょうがない。
普段一緒に居るとさして意識しないのだが、こうして外で改めて見るとかなりイケメンの部類に入ると再認識させられる。
どうせ会社でもモテてるんでしょーと酔った勢いで絡めば、そんな事無いよと笑って一蹴されるが、絶対に本人が気づいていない、もしくは慣れきっていて気にしていないだけだと思う。
歩道に差し掛かったところで、黒縁メガネのサラリーマンが立ち止まった。
丹羽も同じように立ち止まって軽く会釈をして挨拶を交わすと、そのまま黒縁メガネのサラリーマンは歩道に沿って歩いて行った。
丹羽はそのまま真っすぐに亜季の方へ向かってくる。
待ちきれずに思わず駆け出していた。
「亜季、待たせてごめん」
「ねえ!今の人誰!?」
おかえりよりも先に質問が出た事に丹羽が訝しげな表情になる。
「取引先の人とか!?っきゃ!」
さっきの人物が気になり過ぎて、足元が全く見えていなかった。
アスファルトのくぼみに足を取られてしまう。
躓いた亜季の身体を、一歩踏み出した丹羽の腕が受け止めた。
「・・危ないな・・・そんな見惚れるほど好みの男だった?」
顰め面で言い返されて、思わず唖然とする。
「いや、しゅっとしたエリートサラリーマンだとは思ったけど・・ていうか、見惚れてないし!
どっちかっていうと、岳明に見惚れ・・・いえ、なんでもないです」
焦りの余りうっかり口を滑らせてしまう。
あ、と思った時には目の前に丹羽の顔が迫っていた。
「何でもなくはないだろ・・」
「いいから、そこは流してよ!それよりあの人知り合い?」
剣呑な視線を向けると、丹羽が表情を柔らかくした。
亜季に向ける眼差しが熱っぽい。
気を抜いた途端、額に唇が落ちた。
「流さないから言い直してよ・・あの人は同じマンションの人。
たまに、休日出勤の時に会うから・・」
「ああー良かった・・取引先の人とかだったら、こんなだるんだるんの格好の奥さんって思われたくないし」
「そんな事気にしてたのか・・向こうは亜季の事も知ってたよ。
二人で出かけてる所見た事あるってさ。あんな嬉しそうに手を振ってくれるなんて、可愛い奥さんですね、って言ってたよ。
新婚が羨ましいってさ」
「・・あ・・そう」
「で、誰に見惚れたって?」
「スーツよ、スーツ!改めてみると・・かかかっこいいなって。
もういい!?死ぬほど恥ずかしいんだけど」
「んー・・いい事にしようか。亜季が余所見してなかった事も分かったし・・・今は素面だし」
すいと頬を指でなぞられて、思わずぎゅっと目を閉じる。
啄むように唇が触れた。
一度では終わらずに、丹羽の腕が腰に回って抱き寄せられる。
人通りの少ない通りとはいえ今は夕方だ。
焦る亜季をものともせずに、唇で翻弄してしまう。
触れた箇所から伝わって来る愛情が心地よくて素直に応えてしまう自分が悔しい。
「ん・・・っん」
最後に上唇の端にキスをして丹羽が離れた。
亜季の短い襟足を撫でながらホッとしたように息を吐く。
「朝から面倒な会議でうんざりしてたけど・・・今の一言で全部吹き飛んだ・・」
「おかえり。お疲れ」
改めて口にすると、丹羽が目を細めて微笑んだ。
「うん。ただいま」
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