第31話 シンドローム
「丹羽さんって素敵ですよねー」
何も知らない後輩庄野の言葉に亜季は思わず抱えていたファイルを落としそうになった。
「そ・・そう?」
「こんなに仕事で関わってるのに!亜季さん何にも思わないんですか!!あり得ないですよ!優しいし気配り出来るし、見た目も二重丸!清潔感あって爽やかだし!仕事もできるし!しかも、年上なのに全然偉そうじゃないし!」
「そ・・それは、こっちは仕事上のクライアントだし。年下だろうが丁寧に接するのは当たり前でしょ。営業職だから愛想良くなきゃ仕事になんないし。こまめな気配りは、ほら、相良や樋口だってみんな大人はやってるわよ。大げさよ大げさ」
「えー・・そーかなー・・だって、ほらこないだも、マニュアルが素人向けじゃないって言ったら基礎項目のみピックアップして分かりやすい簡易マニュアル作ってくれたし。ああいうのって、出来る男って感じしません?」
「さ・・さー・・?まあ・・あたしの好みじゃあ無いわな。って、仕事上繋がりある相手なんだからそういうの禁止よ!仕事なんだから割り切って頂戴よ。クライアントと恋愛でごたごたなんて冗談じゃない!もうちょっとで完全に仕事終わるんだから!」
「はーい・・あ、でも、完パケしたらご飯位行けますよねー」
「もう!仕事しなさいってば」
ピン!と庄野の額を弾いて亜季は盛大に溜息を吐いた。
それを見て、庄野が可笑しそうに言い返す。
「でも、亜季さんと丹羽さん、仲良いじゃないですかー。休憩の時も結構話してるし・・・てっきり亜季さんああゆうタイプ好きなのかと思ってたのにー」
「残念でしたー」
「じゃあ、亜季さんどんな人が好みですか?そういう話これまでもした事なかったですよね!あたし、前に付き合ってた人が居たって事以外全然聞いた事ないですけど!飲み会でもいっつも上手く言い逃げしちゃうし!」
そりゃあそうだろう。
以前好きだった相手は同期で且つ婚約中の相良直純だったし。
現在付き合っているのは仕事の取引先の営業マン。
口にできるわけがない。
そもそも、亜季は自分の恋愛ゴトを自ら進んで話をするタイプではない。
ので、恋愛からは縁遠いタイプと認識されていた。
そしてそれは、あながち間違ってもいない。
「好み!?普通よ普通。ちゃんと仕事してて責任感あってあたしよりしっかりしてりゃ問題なし!はい、この話はもうおしまい。ビル入るからね、ちゃんとして」
「はーい」
丹羽の勤める会社の入っている複合ビルのエントランスを抜ける。
もうこのビルにも受付嬢にも慣れた。
エレベーターに乗り込んで指定された会議室のある階で降りる。
エレベーターホールに置かれた電話で指定された番号を押すと事務員の高階が出た。
「お世話になっております。本日お約束しておりました志堂の・・」
「あ、お待ちしてました!申し訳ありませんが、丹羽はただいま電話対応中でして、すぐにお伺いしますので、会議室でお待ち頂けますか?すぐご案内しますね!」
名乗る前に声で気づいた高階が話しかけてくれた。
馴染んだ柔らかい雰囲気にさっきまでのピリピリムードが少し和らぐ。
案内は不要ですよと断って、丁寧にお礼を言って会議室に向かう。
グループ会社とはいえ、他社は他社だ。
と、化粧直しをしてこなかった事に気づいた。
「先行ってて、トイレ行ってくるから」
「はい、分かりました。荷物持って行きましょうか?」
「資料だけ頼める?ごめんねー」
紙袋に入った資料を庄野に預けて女子トイレに向かう。
本当の好みは・・”優しくて、あたしの下らない意地なんて綺麗に溶かして包みこんじゃう人です”そう言えたらどんなに楽か。
確かに丹羽との仕事はやりやすい。
恋人の欲目差し引いても、デキる男な事は間違いない。
シックな照明の下、鏡に映し出された不機嫌な自分の顔を見て溜息をひとつ。
カバンからパウダーを取り出して軽くはたく。
ピンクベージュの口紅を丁寧に塗り直して前髪を撫でる。
香水は左手首に少しだけ振った。
それを右手首にも移してあっという間に化粧直しは終了だ。
「大丈夫」
嫉妬は要らない。
仕事だ、仕事。
最近ヤキモチシンドロームに振り回されている。
トイレを出てホッと息を吐いたら、後ろから伸びてきた腕に手首を掴まれた。
「お疲れ」
「!った・・丹羽さんっ」
名前で呼びかけて慌てて苗字に呼び替える。
油断大敵とはまさにこの事だ。
振り向いてどきまぎする亜季の顔を可笑しそうに見下ろして丹羽が笑う。
「手・・・」
「大丈夫、別に見られても困らないでしょ」
そう言ってしっかりと指を絡めて来る丹羽は上機嫌だ。
優しく爪の先を撫でられると、胸の奥がきゅうっとなって何も言えなくなる。
「そっちは良くてもこっちは困るの」
「なんで?」
「今日は後輩も来てるし」
「言ってないんだ」
「言えるわけないでしょ!取引先の相手と付き合う事になりましたなんてどんな噂立てられるか。仕事終わって落ち着いてからでなきゃ言えないよ。女子は噂好きだし」
「ふーん・・まあ、それは亜季に任せるけど・・これ、いつも仕事の時につける香水?」
手首に鼻を近づけてすんと匂いを確かめた丹羽が問いかけてくる。
どう考えても親密すぎる距離にドギマギしつつ、必死に距離を取るけれど、あっさりと丹羽が詰め寄って来る。
「え・・そうだけど」
「いい匂い」
「あ・・そう・・」
気恥しくて手を振り払おうとするけれど思いのほかしっかり握られた指はそう簡単には離れてくれない。
丹羽がこの状況を面白がっている事は明白だ。
「後輩って・・いつもの庄野さん?」
丹羽の口から庄野の名前が出ただけなのに思わず口ごもってしまう。
庄野は若くて可愛い。
流行りを真っ先に取り入れるような今時の女の子だ。
胸の奥がざわざわする。
「きょ・・今日はシステム全体の打ち合わせだから。あの子にも覚えて欲しい事あるし」
「彼女パソコン強いしね。専門用語もいちいち説明しなくて済むから助かるよ」
「・・・」
「亜季?」
黙り込んだ亜季に不審に思った丹羽が視線を下げて問いかけてくる。
周りに聞こえないように小さく名前を呼ばれて息が苦しくなった。
自分の中は丹羽一色なんじゃないかと時々思う。
このもどかしさをどうすればよいか分からない。
昔は知っていたのかもしれないが、今はもう覚えていない。
それ位恋愛事から遠ざかり過ぎていた。
「・・して」
呟いたら丹羽が問い返してきた。
「え?」
「キスしてっ」
言いきって、それから思い切り俯く。
脳直で降りて来た事をそのまま言ってどうする。
ここは丹羽のオフィスで、今は仕事で会いに来ていて、だから、今のは完全なる失言で。
「亜季?」
耳元を擽る声が、機嫌を取る時のそれに完全に切り替わっていて、甘えていいよと言外に告げられて涙腺が潤んで来る。
「ちゃんと仕事するから・・・し、仕事出来るようにして」
早口で言う。
丹羽の方なんて見れるはずもない。
頭上で小さな溜息が聴こえた。
歩き続けていたので、目的の会議室まであっという間に辿りついてしまっていた。
丹羽がドアノブに手をかける。
タイムアウトだ。
馬鹿みたいな事を言った。
この状況でキスなんて出来るわけない。
自己嫌悪に陥って、さあこれからどうやって仕事モードに切り替えよう、と頭を悩ませ始めた次の瞬間。
亜季の顎を丹羽の長い指が掬い上げた。
視線を合わせるなりほんの一瞬だけ唇が重なる。
約1秒の短いキス。
唇を離して丹羽が吐息で小さく笑う。
「安心した?」
「・・・」
無言で頷いたら笑って丹羽が会議室のドアを開けた。
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