第28話 仕事×恋

「明日、ウチ来るだろ?」


”おやすみ”を言って電話を切る寸前に丹羽が滑り込みで言った一言。


「え!約束してたっけ?」


思い切り動揺して亜季が部屋のカレンダーを確かめる。予定は空欄。


夕飯の約束もなかったはず。


仕事でバタバタしていたので、抜け落ちた予定があっただろうかと心配になる。


「会社、打ち合わせ明日だったろ?」


「あ!!そっちね!仕事!」


つい恋人モードでいたのに、急に仕事の話を振られると困る。


亜季にとっては今や丹羽は仕事の取引先以前に恋人なのだ。


新システムの納品は、志堂のシステム部門との兼ね合いもあって結局こちらが折れる事になり、展示会後に無事に納入された。


棚卸し関係の追加システムの確認で、確かに来訪予定になっていた事を思い出して、意識を仕事モードに切り替えるも。


「そのままウチ来てもイイよ?」


パニック状態の亜季に気づいたらしい丹羽が意地悪く誘いかけて来て憎らしい。


「行きませんっ」


「なんで即答?」


「・・色々事情があんの」


ごにょごにょと誤魔化した亜季の言葉にはそれ以上突っ込まずに丹羽が流した。


女子特有の事情は、まだ丹羽には言いづらい。


「そう、それは残念」


こういうところは大人で安心する。


「午後からだよね、うん。明日はあたし1人で伺います」


「後輩ちゃんは?」


「こっちで研修があるの。あ、なにー?付き合って即行浮気する気?言っとくけど、あの子彼氏いるからね」


「付き合って即行浮気疑うの?」


「っ・・・」


咄嗟に亜季が黙ったタイミングを逃さずに丹羽が一気に畳みかける。


「ヤキモチ妬き」


「だっ誰がよ!」


「言ってもいいの?」


「言わなくていい!おやすみっ!」


勢いに任せて電話を切る。


そのままボスン!とベッドに突っ伏した。


絵にかいたような意地っ張りぶりに、またやってしまったと今更ながらの後悔。


もう何度目だろう。


意地っ張りお終い宣言をした筈なのに、長年連れ添ってきた亜季の一部は、なかなか折れてはくれない。


だって、丹羽はモテるのだ。


営業職なだけあって清潔感もあって、長身で見た目も良いから、亜季と並んで歩けば目を引くのは間違いなく彼の方。


お店に行けば、毎回女子店員がやたらめったら愛想が良くなる。


だからって。


「後輩引き合いに出してどーすんのよ」


呟いたら情けなくなった。


好きになったら、彼や、彼を取りまく環境も気になるのだ。


”余所見しないで”


”あたしだけ見てて”


笑って言えたのはいつの頃だっけ?


10代の頃は言えたな・・20代前半も・・多分言えた。


いや、実際言ったかは別として、言えるような気がしていた。


けれど、今は無理、絶対絶対に無理。


大きな溜息を吐いたら携帯が震えた。


丹羽からのメールだ。


”拗ねないで。明日は仕事モードで来るように。おやすみ”


こういうところがモテる理由だ。


結局さんざん悩んで”おやすみなさい”とだけ返信を打った。


ありがとう、とか、好き、とか、可愛い文章を思い浮かべてみたけれど、どれも打てなかった。


ハートマークの絵文字を打っては消して打っては消す。


最終的にはハートを抱えたクマで良しとした。


メールの一文でこんなに悩むなんて。


ぐったりしながら布団に入ったらすでに日付が変わっていた。


明日、丹羽に会うならいつもよりリッチなパックをしてマニキュアも替えたかったのに。


慣れない社外恋愛に右往左往するアラサーは、毎日大忙しだ。




約束の14時過ぎに、丹羽のオフィスに向かう。


コピーの前に、何度か挨拶を交わしたことのある事務員の姿があったので声をかけた。


たしか高階さん・・だっけ?


記憶を手繰り寄せつつ、もし間違っていた時が怖いので呼びかけるのはやめにした。


「お世話になっております。打ち合わせのお約束を頂いてるんですが丹羽さんはどちらに・・」


「あ、いつもお世話になります!丹羽でしたら会議室の方でお待ちしております。ご案内いたしましょうか?」


「いえ、大丈夫です。場所は分かってますから、伺わせていただきます」


会釈して廊下を戻ろうとしたら再び声をかけられた。


「後でお茶お持ちします・・・あ、コーヒーにしましょうか?」


目の下のクマに気づかれたらしい。


「すいません・・お願いします」


赤くなりながら素直にお礼を口にしたら、人当たりの良い笑顔が返って来た。


「はい」


気が利く感じの良い事務員さんだな、と感想を抱いて、次の瞬間嫌な嫉妬が浮かぶ。


職場の同僚にいちいちヤキモチ妬いてどうする。


本当にここ最近気分の浮き沈みが激しくて困る。


冷静な山下亜季はどこに行ってしまったのかと嘆きたいことばかりだ。


ペシペシ頬を叩きつつ、前も使った会議室へ向かいドアをノックする。


が、返事がない。


「すいませーん・・」


部屋を間違えただろうかと思ってもう一度ドアを確かめる。


が間違いなくこの部屋だ。


「あのー・・入りますよー・・?」


念のため声をかけてからドアを押し開けた。


長机に置かれた書類が一番最初に目に飛び込んで来る。


それから、机越しに眠る丹羽の姿を見つけて、思わず目を見張った。


大慌てで中に入って即座にドアを閉める。


「な・・・」


なんで寝てんの!!


声を上げそうになって慌てて飲みこむ。


いやでもここは仕事場だし、寝てる方が絶対に悪い筈だ。


珍しく冷静な返答を返した脳内のもう一人の自分に頷きつつも、起こさないように足音を立てずに近づいてしまう。


だっていつも先に眠るのは亜季の方なのだ。


ふたりきりの夜に、丹羽の寝顔なんて見たことが無い。


これから先、何回も、きっと見慣れる位見られるだろう寝顔だけれど。


初めては一回だけで。


だから余計ドキドキする。


両腕を枕代わりに眠る丹羽の側にしゃがみ込んで、下から寝顔を覗き込んだ。


と、同時に目が開く。


「いらっしゃい」


「!!!」


驚きの余り声も出ない。


仰天してよろけた亜季の腕を掴んで丹羽が引き寄せる。


「っちょ・・た・・たぬ・・っ」


図らずも膝の上に座る形になった亜季が慌ててもがくが丹羽は腕を一向に緩めない。


それどころか腰に回した腕で雁字搦めに抱きしめて来る。


「ドア開く音で目が覚めた」


「嘘!」


「ほんとだって」


「声掛けてくれれば良かったでしょ!」


「亜季の反応が見たくて」


「昨夜の仕返し?」


「そんな子供みたいな」


丹羽が笑って亜季の耳たぶを舐めた。


ぬるりとした感触が耳たぶとその後ろの肌を辿って、おまけの様に耳殻に吸い付く。


ちゅっと生々しい水音が耳元で響いて、かっと頬に熱が走った。


真っ赤になった亜季の顔を覗き込む余裕がある丹羽は、そのまま頬に唇を寄せて来る。


いや絶対仕返しだ、そうに違いない。


「ちょ!だから!仕事モードで来いって言ったのそっち!」


「亜季はね」


「仕事、するんでしょ」


「するよ、後で」


「すぐ仕事して!今すぐ!」


とりあえず一刻も早く離れなくては、このまま甘ったるい空気に流されて甘ったれな自分が顔を覗かせる事は必須だ。


「仕方ないな」


全くそう思っていなさそうに気安く呟いて丹羽が手元の書類を引き寄せるから余計亜季が焦る。


「そっその前にあたしを離して!」


もう何が何だか分からない。


「離れたい?」


「離して!」


「本気で?」


どうしてここでそう言う事を聞くのか。


亜季が何と言うか分かっているくせに。


こういう問答になると負けるのはいつも亜季の方だ。


舌戦には自信があったはずなのに、どうしてだかこの男には勝てない。


「・・もうヤキモチ妬かないから離して」


殊勝な返事を口にした亜季の唇を軽く啄んで、そのままの距離で丹羽が囁く。


「却下」


必死になって言ったけれど及第点は貰えなかったらしい。


プイっと書類に視線を戻した丹羽を見て亜季はますます慌てふためく。


「は・・離れたくないけど!!コーヒー事務員さんに頼んじゃったからっ・・お願いだから離して!!」


「んー・・・満点じゃないけど・・一応合格」


そんな返事と共に丹羽が亜季の唇を本気で塞ぐ。


かぷりと食まれて、上下の唇を優しく啄んだ後名残惜しそうに解かれる。


一瞬のキスの後、亜季の腰に回していた腕を離した丹羽の唇を確認して、慌てて目を逸らす。


真っ赤な亜季とは対照的に、丹羽は唇に移ったグロスを指先で拭う余裕があった。


「コーヒーなんて頼んだの?」


「ちょっと・・寝不足で・・」


メールの返信に悩みまくって眠れなかったとはとてもじゃないが言い出せない。


「ふーん・・」


おもむろに伸ばされた指先が亜季の頬をそっと撫でる。


労わるような、甘やかすような触れ合いに収まり始めた鼓動がまた暴れ始める。


流されそうになるのをぐっと堪えた。


丹羽が意地悪く問いかける。


「寝かせてあげようか?」


「結構よ!」


思い切り言い返すと同時にドアをノックする音が聴こえて来た。

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