第121話 start over

「あ・・あ・・かな・・いいぃ」


歯を食いしばって渾身の力を右手に込める事5秒。


「ぐ・・はぁあっ」


溜息ともうめき声とも取れない奇妙な声を発してキッチンの隅にしゃがみ込んだ亜季の手から、こぶりな瓶がごろんと床に転がり落ちた。


未開封の瓶には砂糖不使用の美味しそうなイチゴジャムが詰まっている。


そしてシンクの上には、焼き立ての厚切りトーストが白い皿の上でスタンバイ状態だ。


後は、ジャムを乗せるだけ。


それなのに、ここに来てジャムの瓶が開かないなんて!!


まさに予想外の展開だ。


休日だというのに、陽が上って間もない朝の6時にばっちり目を覚まして、連日の残業で疲れてぐっすり寝入っている旦那様を起こさないようにそっとベッドを抜け出し、酔っていた事と、疲れを理由に昨夜回し損ねた洗濯機を朝から2回転させた。


まるで平日の主婦のように朝日を浴びながらベランダに出て、洗濯物を干して、置きっぱなしの雑誌やら広告やらを片付けて、リビングを小奇麗にして、漸く朝食にありつけると思ったのに。


昨日の仕事帰りに、駅前のパン屋で買ったバターブレッドを、超厚切りにして軽くトーストして、コーヒーメーカーから立ち上る芳醇な香りにうっとりしながら、よし朝ご飯だ!と意気込んだところで、ジャムが切れていた事に気付いた。


頂き物の瓶ジャムがあった事を思い出して、戸棚を漁るとママレードと、イチゴのジャムが出て来た。


どうしようか迷って、赤に惹かれてイチゴジャムを選んだ。


イチゴ本来の甘みだけで作った、砂糖不使用優しい甘さのイチゴジャム。


もう開ける前から涎が垂れそうな美味しさだ。


こってりとした赤い果肉が瓶越しに亜季の食欲を刺激しまくる。


ところが、いそいそと瓶の蓋に手を掛けて、えいや!と回すもびくともしない。


それならと、タオルを被せて滑り止めにして、その上からさらに力を入れて回すも効果なし。


家には瓶の蓋を開ける便利グッズなんてありはしない。


ひたすら腕力に頼るのみだ。


開かないわけがない!と自分に言い聞かせて必死に力を込めるがびくりともしない。


そのうち指先に限界が来てしまった。


「あああーどうしよう・・・こういう時どうするんだっけ・・?」


温めて空気を入れるといいって言うから、火に・・・いや、駄目だ、オール電化だしウチ。


独身時代なら、ガスコンロの火をつけて、遠目に蓋をあぶったりしたものだが、新しい家ではそういうわけにはいかない。


記憶を必死に手繰り寄せても、他に方法が浮かばない。


うーん。どうしたものか・・


しばらくキッチンの中をぐるぐる歩き回って使えそうなアイテムを探したけれど見つからない。


それならもう、文明の利器にお願いしよう!と、亜季はキッチンカウンターの上に置いておいたスマホを引き寄せた。


瓶、とひとまず入力すると、途端候補が山のように表示される。


”瓶の蓋開かない”


なんと第一候補で表示されている。


なんだ!お仲間が沢山いるんじゃないかと心強い気分になって、表示をクリック。


ずらずらと解決方法が画面に並んでいく。


「えーっと・・どれどれ・・・ああー熱湯に蓋を付ける・・


お湯沸かすのが面倒くさいしなー・・


お!瓶のフタのふち部分を叩きつける!なにそれそんなので開くの!?」


一番手っ取り早いし、簡単な方法がすぐに見つかった。


ネット社会万歳!と大喜びしながら、それ!と瓶の蓋をシンクの端にぶつける。


ガン!と結構派手な音がした。


念の為もういっちょとガツンとぶつけてから、今度こそと蓋を握って回してみる。


が、開かない。


「えええ・・まだ駄目?


じゃあ次・・蓋じゃなくて、瓶事態を回す・・ああなるほど・・


んんんんーっ開かないいい・・・駄目だわ。


よし、他には・・あ、瓶の底を叩く?」


ふちが駄目なら底を叩けと書いてある。


はいはい喜んで、とがこんと瓶全体をシンクにぶつけてみるがやっぱり開かない。


最後の手段で、蓋を包丁の柄でこんこんと叩いてもみたがやっぱり駄目だった。


こうしている間にも、トーストはどんどん冷めていくし、コーヒーも美味しくなくなっていく。


時間がないのだ。


もう今更ママレードに変更するという選択肢は亜季の中には存在しない。


意地でもイチゴジャムでトーストを食べると固く誓う。


「くっそう!絶対開けてやるんだから!


えーっと別の方法を・・・あ、お湯じゃなくてもあっためる方法あるんじゃないの!」


画面をスクロールしていくと、道具を使って開ける方法という項目が出て来た。


よくある便利グッズを使った開封方法が記載されている下に、ドライヤーを使って瓶の蓋を温める、というアイデアがあった。


キッチンの方が何やら騒がしい。


ガンゴンと、料理中とは思えないような物音がして、丹羽は目を覚ました。


昨夜は日付が変わってからも亜季との晩酌は続いた。


お互い抱えている仕事の愚痴やら報告やら、その日職場であった面白かった事を話しながら、テーブルに並べた瓶をちょっとずつ愉しむ。


焼酎にウイスキー、定番のビール。


風呂上がりから飲み始めたので、最初の一杯はビールで乾杯して、その後は、それぞれが好きなものを選んだ。


週末の夫婦の楽しみでもある、深夜の晩酌は一週間蓄積された疲労を一気に忘れさせてくれる。


軽く飲んでから、酔いつぶれる前に亜季をベッドに引きずり込む事も多いが、昨夜は二人揃って眠る限界まで飲み続けた。


丹羽が営業先の酒蔵で勧められて買って来た焼酎が、二人の好みに合っていて、どんどん酒が進んだせいだ。


後片付けもそこそこにベッドに潜り込んで、そのまま熟睡。


亜季が先に起きた事にも気づかない位寝入ったのは久しぶりだった。


隣のシーツは冷え切っているから、随分前に亜季は目を覚ましたんだろう。


目覚めて一番に抱き寄せる存在がいないのは淋しくもあるが、時計を見るとまだ8時前だったので、これからいくらでも取り返せると開き直る。


寝室を出て、リビングに入ると、キッチンから急ぎ足で出て来た亜季と鉢合わせた。


「あ、おはよ!」


「おはよう。なんか賑やかだったけど・・・掃除?」


「ごめん!起こしちゃった?」


「いいよ。休みの日に先に起きてるなんて珍しいな」


「でしょ?なんか目、覚めちゃって、あ、コーヒーあるよ。


パンも・・トーストしたの冷えてるけど・・・ちょっと待ってて、すぐにドライヤー取って来るから!」


コーヒーとトーストはともかく、どうしてそこでドライヤーが出て来るのか分からない。


「髪は撥ねてないけど・・?」


朝起きて着替えた時に身支度を整えたのだろう。


いつも寝起きについている寝癖は直っていた。


短い襟足を撫でて尋ねると、亜季が違うわよと笑う。


「ジャムの瓶がね、開かなくて!ドライヤーであっためると開くって書いてあるから・・」


「ああ・・それでさっきの物音・・」


亜季が四苦八苦しながらジャムの瓶と格闘していた物音だったのかと納得する。


そんな丹羽の横をすり抜けて、亜季が脱衣所に向かおうとした。


「いや、待って、亜季」


慌ててその腕を捕まえて引き戻す。


「え。なに?」


「何かおかしくないか?」


「なにもおかしくないけど・・・?」


「おかしいだろ。俺が寝てるならともかく、起きて来たんだから、ドライヤーは必要ないでしょ」


「・・・え・?」


「はい、やり直し」


「・・・だから、ジャムの瓶が」


開かないからね、ドライヤーをね、と亜季がもう一度繰り返す。


そうじゃないよ、と言いたい所をぐっと堪えて、丹羽は右手を差し出した。


「うん、開けてやるから貸して?」


「・・!」


答えを出すと、亜季がようやく理解したように、キッチンに取って返した。


「なんで俺に言わないの・・」


何となく答えは分かっているけれど、つい愚痴っぽく言ってしまう。


亜季は基本何でも一人でやりたがる。


多少の無理はねじ伏せてどうにかしようとしてしまう男前な性格は嫌いじゃないけれど、こういうちょっとした時にすら、すぐに自分の存在が出てこないのは・・・面白くない。


「いやーごめんね!だって、一人の時は、色んな裏技で開けるしかなかったから、ついその感覚が・・お願いします」


普通こういう時、妻は可愛く、開けてー?と甘えるものだろう。


「だろうと思ったけど・・・もう二人暮らしだよ、奥さん」


言った所で、でもどーにかしたら自分で開けれるかもしれないからさ!とか言うのは分かっているので口にはしない。


こつんと亜季の頭を小突いて、差し出された瓶を受け取る。


「・・肝に銘じておきます」


「こんなのあったんだ・・見た事無いやつだな」


「それね、会社で貰ったの。美味しそうでしょ?でもね、蓋がほんとに固いから、無理しないで!


ぶつけても叩いても・・あ!」


言っている傍から蓋に手を掛けて捻ると、ポンと小気味よい音共に瓶の蓋が開いた。


「握力の差ってあるからね、はい」


果肉たっぷりのジャムが覗く瓶を亜季に手渡して、ついでに唇におはようのキスを落とす。


「ん・・・さすが、ありがとう!」


嬉しそうに笑うあどけない表情が可愛いかったので、しょうもない小言は言うまいと心に決めた。


「冷めちゃったトーストは、あっため直すから、半分こしよう?


久しぶりに朝ご飯ゆっくりできるし」


「その後ベッドに戻ってくれるなら、喜んで?」


伺うように尋ねれば、亜季が口籠った後で、こくんと頷いた。


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