第123話 確認させてね、俺は要る??

「今日はいきなりお邪魔してすみませんでしたー!!」


玄関ドアを開けた所で振り返って人の良い笑顔を浮かべる夫の同僚に、亜季は笑顔でとんでもない!と返した。


「こいつがどうしても丹羽の新居が見たいって言うもんで・・」


後から廊下に出たもう一人の来訪者が、同期の肩を遠慮のない力でバシバシと叩きながら言い訳を口にする。


「お前だって気になるって言ってただろうが!」


即座に反論+上腕を小突き返した彼の力も気持ちいい位の遠慮のなさで、気心知れた同期なんだなあ、と嬉しくなると同時に、今頃妻を溺愛する夫に構い倒されているであろう大親友の顔がちらっと浮かんだ。


言いたい事を言って、叱って、励まして、慰めて、一緒に走れる相手というのは、人生の中でそう沢山出会えるものではない。


況して成人して社会人になってからそんな相手と巡り合えるだなんて、学生時代の亜季は想像すらしていなかった。


部活に明け暮れた青春時代も最高に楽しかったと思うけれど、大人になって責任が自分にだけ伸し掛かって来る世界で、かけがえのない親友と出会えたことは、本当に幸運な事だった。


営業職同士、出世を争うライバルでもある彼らの関係性まで詳しくは分からないけれど、リビングで屈託なく話す丹羽の様子からして、同僚に気を許している事は容易に想像がついた。


会社は仕事をする場所だけれど、それと同時に、人間関係に物凄く左右される場所でもあると思うので、夫の交友関係が良好である事は、妻としてもこの上なく嬉しい。


確かに平日ど真ん中に、ごめん、今から同僚連れて帰ってもいいかな?どうしても家で飲みたいって煩くて、と相談された時には焦ったけれど、仕事場での彼の様子を伺う事も出来て、亜季にとっても有意義な時間となった。


「いえいえ、そんなお気になさらず!」


建前でなく、本心で言ってまたいつでも来て下さいね!と付け加える。


「え!ほんとですか!!嬉しいなあ!次は、亜季の好きそうなワインでも持ってきますよ!俺、最近凝ってるんで!」


「こいつね、ワインセミナーまで通い出して、ボトル見ては蘊蓄語るんですよ!」


「確かに、あれは面白かったけど、面倒だったなあ」


「え!まじで!?面倒とか言うなよ!!必死に覚えた知識を披露する場所が他にねぇんだよ!!」


「お前もそろそろ新しい彼女作れよ」


「新婚に慰められたくねーよ!」


繰り出した拳を掌で受け流して、丹羽が鷹揚に微笑んだ。


「はは!僻むなって・・亜季、下まで送ってくるよ。ついでにコンビニ寄って来るけど、なんかしる?」


「んー・・炭酸飲みたいかも」


「了解」


「じゃあ、お邪魔しました!」


「遅くまですいませんでした!おやすみなさい!」


「気を付けて帰って下さいね!おやすみなさいー。いってらっしゃい!」


「うん、行ってきます」


ひらひらといつもの癖で丹羽に手を振ると、一瞬目を丸くした後で、照れ笑いと共に手を振り返される。


あ、そうか、二人きりじゃない時にこれやるの初めてだったな、と思ったら一気に恥ずかしさが押し寄せて来た。


うわー・・いいなーあ。とブツブツ零す同僚の背中を押して、丹羽がエレベータホールへ向かうのを見送ってから家の中に戻る。


さっきまでの賑やかさが嘘のように静まり返ったリビングには、亜季が大急ぎで作ったカプレーゼの残りと、トマトオムレツの残骸、サラダの欠片がテーブルの上に残っている。


丹羽が帰り際に買って来たおつまみナッツの小袋が床に落ちているのを拾い上げて、テーブルの端に置きっぱなしの缶ビールの残りを飲み干す。


急にお邪魔させて貰うので!と、同僚二人が差し入れしてくれたお中元やお歳暮で大人気の王道メーカーのビールは、リッチな味がした。


後片付けしなきゃなあ、とは思うものの、時計を見ると11時半過ぎているし、いい具合に酔っているので何もする気が起こらない。


今日はもうシャワーで済ませて、食器洗いは明日にして、ゴミだけ纏めて・・・


頭ではこれからやる事を組み立てられるのに、足の力は抜けていく一方だ。


「はーあ」


丹羽がコンビニから戻って来るまで休憩しよう、と開き直ってラグの上に寝転がる。


と、ソファの端から床に落ちているスーツが目に入った。


帰宅と同時に丹羽が脱いだものだ。


ハンガーに掛けるのは後でいいか、と放置してそのままになっていたのだ。


手渡されたコンビニ袋に入っていた酒類を冷蔵庫に放り込む事を優先した自分を思い出して、旦那のスーツ忘れるとかー・・ちょっとどうよ、あたし・・・と凹みそうになる。


出来た妻なら、きちんとハンガーにかけて、ブラッシングをしてやった事だろう。


亜季さんもぜひいっしょに!と言われて、グラス片手にほいほい座り込んで一緒に飲んで盛り上がってしまった自分の性格を今更呪っても遅い。


「ごめんねー後で・・ちゃんと」


スーツに謝ってもしょうがないのだが、ソファから今にも落ちそうになっていた悲しい姿を思うと、申し訳なさが込み上げて来る。


引き寄せた濃紺のスーツは、仕立ての良さが感じられる触り心地のよい生地で作られていた。


営業なので、それなりの格好をする必要があるのだとは思うが、結婚前も今も、彼のスーツ姿はやっぱりパリッとしていて格好いい。


父親を亡くしている亜季にとって、男性のスーツというのはあまり縁のないものだったから、尚更丹羽のスーツ姿には年甲斐も無くときめいてはしゃいでしまうのだが、こればかりは仕方ない。


亜季にとってヒールが戦闘靴であるように、丹羽とってはこれが戦闘服なのだ。


スーツを着ている時の丹羽は、決して厳しさは感じさせないのに、どこかぴりっとした空気を纏う。


その癖、亜季に向ける眼差しは、妻仕様で極甘なのだから性質が悪い。


きゅうっと心臓が鳴る、とか言ったら呆れられるかな?馬鹿にされるかな?


というか、こっぱずかしすぎて、絶対に言えないけれど。


もうそろそろ見慣れても良いと思うのだが、こうして手元に引き寄せてしまうともう駄目だ。


そこに丹羽がいるかのような錯覚に陥ってしまう。


スーツの背中に男を感じる、なんて何をベタな事を・・・と思っていたけれど、認める。


だって事実なのだからしょうがない。


たまに朝一緒に出かける時、玄関に先に向かうその背中にぎゅうっとしたくなったのは、一度や二度じゃない。


そわそわと落ち着かない亜季に気付いた丹羽が振り返って、捕まってしまう事もあるも少なくない。


こうして抱き寄せたスーツに、遠慮なく顔を埋めたくなるけれど、そこはぐっと堪えた。


料理もしたし、化粧直しする時間なんて殆どなかったので、目元だけ綿棒でヨレを直した顔は、毛穴落ちに皮脂崩れで見るも無残な有様だろう。


スーツについたファンデーションと皮脂汚れの悲惨さは身を以て体験しているので、何としても阻止しなくてはならない。


その代わりに、と胸元に濃紺のスーツを抱き寄せて丸くなる。


ほのかに香る丹羽の匂いに、やっぱり胸の奥がきゅうっと鳴った。


さすがにこんな所は丹羽には見せられないので、玄関の開く音がしたらちゃんと手放して誤魔化さないといけない。


これ掛けておくね、といつも通りに・・・


頭の中ではシミュレーション出来ていた、完璧だった、それなのに。


☆☆☆


前髪を掬うように撫でるのは、丹羽が時折やる癖だ。


するすると指の腹で毛束を撫でる仕草に、ショートカットでもトリートメントだけは絶対に奮発して欠かさずにやろう、といつも奮い立たされる。


何度か指がそうして髪を遊んで行って、離れた。


いつの間にベッドに行ったんだろう、と疑問が浮かんだ次の瞬間、手の中にある心地よい生地の感覚に現実を知った。


「・・・わ・・・うそ・・・」


此処はリビングで、腕の中にあるのは、丹羽のスーツだ。


呟いて、恐る恐る目を開けると、緩めたネクタイとワイシャツ姿の丹羽がこちらを見つめていた。


その向こうのテーブルの上には、買って来てくれたであろう炭酸水のペットボトルが見える。


「俺のスーツがえらくお気に召したみたいだねぇ、奥さん?」


揶揄うような声音と共に、開き切らない瞼のふちにキスが落ちた。


触れた唇の渇いた感触に、ドキリと心臓が跳ねる。


「ちが、お、落ちてて、か、片付ける・・ハンガーで・・クローゼットがっ」


もう自分でも何を言っているのか分からない。


「ふーん・・・そう」


至極穏やかに頷かれて、けれど、何も伝わっていないのは明白だ。


いや、でも、伝えなければいけない事はある。


ラグに手を突いて、ゆっくりと起き上がる。


抱えていたスーツを膝の上に置いて、ひと撫でした。


うん、さすが高級スーツだ、若干よれた感じはするけれど、皺にはなっていない。


「でも、化粧は付けてないから!!」


ハンガーに掛けて、ブラッシングをすれば大丈夫!と胸を張る。


亜季の勝ち誇ったような宣言に、丹羽は一瞬目を丸くして、それから破顔した。


「あー・・そっか・・・頬ずりは我慢したって事か。うん、そう」


我慢というか、まあそうだけれど、当然はいそうです、なんて言えない。


ラグの上に片足を立てて座り込む丹羽が、膝に頬杖をついた。


なんとなく形勢不利を悟って、亜季は居心地悪げに身動ぎする。


「・・・・ええ・・・っと・・・・だから・・・ちょっと、疲れて、休憩を・・ね・・・」


「俺のスーツと?」


「・・・はあ・・・まあ・・」


そこは嘘吐きようがないし。


こくんと頷いた亜季の後ろ頭に手を伸ばして、丹羽がくしゃりと襟足を撫でた。


「ふーん、じゃあ、俺も帰って来た事だし、こっちにどうぞ?」


「は?へ?」


「それとも、亜季はただの布切れの方がいい?俺の事は要らない?」


小首を傾げて尋ねられて、意味が分からず黙り込む。


このスーツはただの布切れでは無いし、上等な生地を使った触り心地の良い立派なスーツだ。


膝の上に置かれたままの濃紺の生地を掌で撫でる。


その手を、丹羽が掴んだ。


「亜季、なあ、俺は?」


「・・要るわよ、勿論」


「・・ありがとう」


ホッとしたように丹羽が笑った。

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