第122話 BRACELET
映画の時間までお茶でもしようか、と入ったカフェのテーブル席で、メニューを広げた亜季がドリンクメニューの豊富さに喜色を表す。
迷うようにメニューを指で辿る彼女の左手の薬指にはシンプルな結婚指輪と重ね付けされているダイヤの指輪が光っている。
丹羽が贈った婚約指輪だ。
結婚して以来殆ど日の目を見る事の無かった婚約指輪だが、亜季を敵視する社内の害虫駆除の目的で身に付けて以来、ふたりで出かける時には指に嵌めるようにしているのだ。
亜季は宝飾品会社に勤めているので、必然的に新しいジュエリーの情報や、流行には詳しくなるが、個人的に社割であれこれ買い込むほど宝石類に興味があるわけではない。
だから、婚約指輪を付ける時には洋服選びに四苦八苦する。
手持ちの洋服はオフィス向けのシャツやシンプルなカットソーが殆どで、休日のデート仕様の華やかな洋服はごくわずか。
休日出勤も珍しくない多忙な丹羽との定番デートは徒歩圏内の行きつけの居酒屋だから、いつもコンビニに行くような格好で出かけてしまう。
まともなデート服なんてすぐに浮かぶのは今日着て来た花柄のワンピース(ジャケットとセットで創業記念パーティー用に購入した)と、レーススカート(佳織との買い物で押しつけられた)位のものだ。
自分の女子力の低さは自覚しているが、たまのデートでいつも同じ格好ってそれは妻としていかがなものか?
これを機にもうちょっとデート服も買い足そうと心に決める。
丹羽はワンピースを着た亜季にちょっと驚いて、婚約指輪の威力は凄いな、と笑っていた。
亜季にとって紺地に白と黒の花柄がどれ位冒険か彼もよく分かっていたのだ。
だから気負う亜季に”エスコートしますよ、奥さん”と軽くおどけてみせた。
休日の午後のカフェは満席状態だ。
16時前の映画なので、とりあえず1時間位ゆっくりできれば、と店に来たが案の定20分程度待たされることになった。
土曜日のこの時間帯に夫婦で郊外のショッピングモールまで出かけるのはひと月ぶりだ。
だから余計新鮮で、待ち時間も少しも苦痛では無かった。
照明を反射して光る薬指を確かめるように触れる丹羽の指先がいつもより優しい気がしてしまうのは、気分が高揚しているせいかもしれない。
ドキドキするこちらの気持ちを見透かしたように、不意打ちで見下ろしてきた丹羽と視線が重なる度に、付き合う前のような緊張に襲われる。
丹羽亜季がなりをひそめて、山下亜季がひょっこりと顔を出す。
妻の仮面を忘れて、繋がれていた手を解いてしまったら、丹羽が笑って指先を捕まえにきた。
その柔らかい仕草にまた心拍数が上がって、もうどこまで行っても堂々巡りだ。
今日は全力でデートに挑むしかない、と覚悟を決めてカラカラになった喉を潤す為のドリンクを必死に選ぶ。
と、丹羽の掌が亜季の肩に触れた。
「・・・っ!」
「あ、ごめん。カーディガン、肩からずれ落ちそうだったから」
「あああ、うん、ごめん、うん、ありがとう」
外は初夏の陽気なのだが、館内はエアコンがよく効いているので、ノースリーブのワンピースには上着が必須だ。
車の中では、丹羽が亜季を気遣ってエアコンを入れなかったのでさして寒いとも思わなかったが、こうして長時間室内にるとじわじわと冷えて来る。
思い出したようにカーディガンの前を掻き合わせて亜季が微笑む。
こんな事で赤くなる自分がいやになる。
「クランベリーソーダにしようかな」
「冷たいのだと身体冷えない?」
「あ。そっか・・・んー・・・」
丹羽の指摘通り、勢いでアイスドリンクを注文すると、後で寒い!というのが目に見えていた。
ここは大人しくホットドリンクを・・と再考し始めた亜季を横目に、丹羽が歩いていた店員を呼び止めた。
「すみません。ひざ掛け借りれます?」
「はい。すぐにお持ちします」
にっこり頷いた店員が足早に去って行く。
「・・・ありがと・・」
「要らないかもしれないけど、一応ね」
「いや、要る。スカートだし!」
しかもいつもより若干短いし!!!
仕事場で吐き慣れているペンシルスカートやタイトスカートなら足を覆うフィット感で安心出来るのだが、今日のワンピースはフレアスカートだ。
生地自体はしっかりしているし、ふわふわと揺れる裾は女性らしくて気に入っているけれど、如何せん心許ない。
足元がスースーして・・とか言ったら、佳織あたりに呆れ顔で叱られそうな気がする。
でも事実だから仕方ない。
会社でも自宅でも圧倒的にパンツスタイルが多い亜季なのだ。
見た目よりも機能性を重視するとどうしてもスカートは敬遠してしまう。
もともとスカートが似合うタイプでもないし。
「ちょっとは緊張が解けた?」
キャラメルフレーバーティーと、ホットコーヒーを注文した後で、丹羽が亜季の顔をまじまじと見つめてきた。
楽しむような揶揄うような色が混ざった柔らかい眼差しに射貫かれて、どきんと心臓が跳ねる。
スーツを着てネクタイを締めて、バリバリ仕事をしている彼も勿論好きだ。
最初の出会いは合コンだったので、お互い良い印象は持てなかったけれど、仕事の打ち合わせで顔を合わせた時の丹羽は、文句なしに格好良かった。
亜季の同期の男性陣は豊作と言われている。(女子は亜季と佳織を筆頭に男子顔負けの行動力を持つ強気な女子が多かったので、あまり評判はよろしくない)
紘平や直純を始め、見た目も中身もバランスの取れた同期が多かったので、自然と目は肥えていた筈だ。
それでも、社内で優秀だと評される彼らに引けを取らない位、丹羽は魅力的に見えた。
専門用語を説明する際の言葉選びや、専門外の分野である製造部門の人間が質問しやすいような堅苦しくならない雰囲気づくり、クライアントへの配慮が何処までも行き届いていた。
丹羽の応対能力の高さに、自らを省みて色々反省したりもした。
お世辞抜きで仕事が出来るこの男の、プライベートを丸ごと自分が握っているのだと、真正面から甘やかな視線を受け止めながら、改めて実感する。
「・・・そういうのには気付かない振りするのが礼儀じゃなくて?」
「ごめん。でも、あんまりにも分かりやすいからさ。一瞬、付き合う前とか、付き合い始めにタイムスリップしたかと思った」
「大袈裟」
不貞腐れて言い返しながら、まんざらでもない。
亜季自身全く同じことを考えていたからだ。
「この指輪に釣り合うようにならないとって背伸びする事ないから」
「そこまで見抜いてたならもう黙って・・」
「亜季に似合うものを選んだんだから、気負う必要ないだろ?」
「いや、でも、ダイヤの価値とか色々ね・・」
溢しかけた溜息を飲み込んで。羽織っていたカーディガンに袖を通す。
丹羽のいうとおり、ホットドリンクにして正解だった。
届けて貰ったひざ掛けで足元は十分暖かいが、首筋がひんやりしてきたのだ。
「ダイヤもただの貴石(いし)だから、とか言ってなかった?」
「それは仕事の話」
「女心は難しいな・・・あれ、そんなブレスレット、持ってたんだ?」
通した右手の甲で光る細い金のチェーンに気付いた丹羽が、声を上げた。
共働きだし、亜季の買い物にも頓着しない丹羽だが、意外とよく見ているのだ。
亜季が美容院に行った日は必ずわずかな変化に気付いていくれる。
「これはね、うちの会社で人気のチャームブレスレットで、定番商品なの。佳織とお揃いで昔買ったやつ。蝶は、女性の成長と美を司るんだって。蛹から蝶になってやろう!なんてお互いを励ましあったりしたっけ・・」
たった数年前の出来事なのに、物凄く昔の事のように感じる。
あの頃抱えていた未来への漠然とした不安や希望。
自立したカッコイイ女になろうと誓い合った二人は、紆余曲折の末、それぞれの幸せを手に入れた。
順風満帆とは行かなかったけれど、足掻いて走ったこの結果に、亜季は十分すぎる位満足している。
そもそもあの頃の自分は、一生結婚できない可能性の方が大きかったのだ。
老後の不安を一つでも減らすためにも、やっぱり定年まで働かなくては、と真剣に考えていた。
今もその気持ちは変わらないけれど、老後の心配の大半は消えてなくなった。
目の前の男のおかげだ。
数十年後の未来も自分は一人じゃない、という安心感は、何物にも代えがたい。
佳織とは冗談半分で、お互い独り身だったら面倒を見合おうなんて話していたけれど。
「二人で海の見える老人ホームに入ろうか、とか慰めあった事もあったわ」
上げればきりがない位に、佳織との思い出は亜季の中に溢れている。
佳織の尊さは、丹羽と出会う前も今も変わらない。
「ブレスレットって・・束縛の一種とか言うけど・・・」
亜季の手首を優しく撫でた丹羽が、穏やかに微笑む。
「ああ、ネクタイあげるとーとか言うやつね」
プレゼントには何かしらの意味合いが含まれるものだ、良くも悪くも。
「俺も亜季にブレスレット贈ろうかな?」
「っは!?」
「冗談だよ」
「びっくりした・・・ってかもうジュエリーは十分です。婚約指輪でお腹いっぱいです」
「そう・・?亜季が欲しがってくれるなら、喜んでプレゼントするけど・・」
「いや、要らないから、気持ちだけ頂きます」
神妙な面持ちで言い返した亜季の婚約指輪を指でなぞりながら、丹羽が小さく呟いた。
「・・まあ、チェーンより、こっちの方が切れる心配はないから、いいか」
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