第86話 よく眠れますように

女性が結婚で変わるのなんて、苗字位のもんだろう。


まるで他人事のようにかるーく考えていた去年までの能天気な俺を、本気で殴り飛ばしてやりたい。


丹羽は、乾杯の後、ほぼ手つかずの状態で置かれているビールを脇に押しのけて、俯いたきり顔を上げようとしない亜季に視線を送った。


普段の亜季なら、勢いだけで1本目のビールは空けてしまう。


まさにのど越しを楽しむための駆けつけ一杯というやつだ。


そんな彼女が、僅かに口を付けたきり、ビールには目もくれず終いには泣き出す始末。


丹羽は、まさに今マリッジブルーの恐ろしさを痛感していた。


挙式が迫るにつれて、タイトになる打ち合わせとスケジュール。


お互い仕事を抱えている為、空いている方が、期限の近い内容を処理する方法で何とか乗り切ってきた。


大まかなプランは出来上がっているし、招待状の手配も済んだ。


親戚関係に挨拶の依頼もしている。


入退場のBGMは、ふたりがそれぞれに好きな曲を出し合った。


亜季は、任された仕事は責任を持ってやり遂げるタイプだし、必要以上に気を回す性格だ。


あれこれ先回りしてやろうとする彼女を上手くコントロールできているつもりでいた。


その考えが、甘かったのだ。


新郎新婦では、挙式の準備の比率が明らかに異なる。


ドレス選びに、装飾品の手配、ブーケの作成に、ヘアメイクの相談。


そこに加えてなくてはならない両親への手紙。


ドレスが決まっても、それに合わせるブーケは何種類もあって、選ぶ花によって印象も大きく変わってくる。


華やかさを演出するための装飾品のデザインも多種多様で、ティアラにするのか、生花を使ったアレンジにするのかで、ネックレスやピアスも変更する必要があった。


タイミング悪く、仕事が山場を迎えて、時間が取れない中で、式場から確認の連絡が何度も入り、何一つ準備が進められない自分に、緊張と不安が重なって、すっかり自信を失ってしまったらしい。


出会ってからこちら、こんなに飲まない亜季は初めて見た。


仕事の立場上、上司と後輩の調整役に回される事が多い彼女は、飲み会では必ず盛り上げ役を任される。


飲めない後輩の代わりにビールを煽って、お酌をして回って、潰れたメンバーの面倒を見て、後片付けまで終わらせて帰ってくるというのが定番だった。


そんな亜季が、外でも殆ど飲んでいないのだ。


これはいよいよヤバい気がする。


意地っ張りな亜季の性格からして、自分から弱音を吐くとは思えない。


”言っていいよ”


と諭すように言えば言うほど、亜季は涙目になった。


それなら酔わせて、愚痴でも泣き言でも聞いてやろうと思ったのだが、見事に失敗した。


「どうせあたしなんか・・・」


大号泣が来るかと思いきや、亜季が声を殺して泣き始めたのだ。


これには丹羽も、天井を仰いで途方にくれたくなった。


どうせなら、嫌な事全部吐き出す勢いで、わんわん泣いてくれた方が良い。


気持ちを押し殺す様な泣き方をされる方が、よほど辛い。


顔を覆って泣き伏せる亜季を抱きしめて、丹羽が静かに言った。


「どうせって何?亜季はどうせ、なんて言われる存在じゃないよ」


他の誰が何を言おうが、少なくとも丹羽とってはかけがえのない女性だ。


「だって・・・何にも出来ない・・・あたし・・」


「今でも十分やってるよ。


何も出来ない人が、あんなに同僚や後輩に慕われたりしないよ。


亜季の事をいつも見てる俺が言うんだから、間違いない」


「嘘つかないでっ・・・どうせ・・・岳明も・・・うんざりしてるくせにぃぃ〜」


物凄い言いがかりが飛んできた。


これもマリッジブルーのなせる技なのか。


何も出来ない自分は全く価値が無くて、だから、結婚だって上手く行くわけない、という無限ループに嵌まっているようだ。


確かに多少うんざりしてはいる、マリッジブルーに。


結婚前の女性は気分の浮き沈みが激しいというが、これほどまでに落ち込むものなのか。


まあ、今更自信が無いとか、価値がないとか言われても、手放せる訳ないから、何を言ってくれてもいいんだけど・・・


こちらの決意はプロポーズの時点でとうに固まっているのだ。


それを、今更どうこう言われたところで気持ちが変わるわけがない。


それくらいの覚悟で、亜季に接してきたつもりだ。


女性は苗字が変わると、運勢が変わるとかって騒ぎますからね、と後輩の高階優月が話していた事を思い出した。


運勢やら占いに拘らない男には理解できない思考だが、命運が左右されるのは事実だろう。


亜季の人生は、これから全部に丹羽が握ることになるのだから。


何一つ不安なく丹羽のもとへ嫁げるように、サポートしてきたはずが、どこかでボタンを掛け違えてしまったのか。


「亜季が自分で思ってるような見方を、俺も、周りもしてないよ。


一番なにが不安なの、俺と一緒に暮らすこと?


結婚式の準備が上手く進められてない事?


それとも、仕事が忙しすぎて余裕が持てない事?」


思いつく限りの不安要素を口にしてみる。


亜季の短い髪を撫でながら答えを待つこと10秒。


「・・・ぜんぶ・・」


亜季の小さな声が聞こえた。


参った。


つまり、亜季はこの現状何もかもが不安でどうしようもないのだ。


四面楚歌になっている彼女の周りの壁を、ひとつひとつ潰して道を開いて行くよりほかにないらしい。


これは、口説いた時と同じ位の労力が必要かな・・・


ひたすらに丹羽を拒絶し続けた、出会ったころの頑なな亜季を思い出して、苦笑いをする。


会うたびに突っぱねられたのは初めてだったな。


結構どこに行っても、人当たりの良さと社交的な性格で上手く馴染んできたのに。


押しても押しても駄目で、さすがに無理かと思った事もあった。


まあ、あの頃と比べれば、今はこうして腕の中に居てくれるわけだし。


大人しく肩に頭を預けて泣き続ける亜季から、当時の、片意地張った強気な山下亜季は想像もつかない。


彼女が長年築き上げてきた、意地とプライドと、努力で構築された鎧を、少しずつはがして、じわじわと距離を詰めてきた。


今だって、山下亜季の全部が手に入ったなんて思っていない。


きっとまだ、見せて貰っていない亜季の色んな表情が、この温かい身体の中に、いくつも眠っているのだ。


それら全部を、マリッジブルーのせいで台無しにはさせない。


「分かった。亜季がいま目の前の事全部に不安なのはよーく分かったから。


ひとつだけ、先に訊かせて?」


「・・・なに」


涙目の亜季が、少しだけ顔を上げてくれた。


随分泣いたせいで、すっかり充血した瞳が、また新たな涙を生もうとしている。


零れる前の涙を目尻から拭い取って、丹羽は尋ねた。


「亜季は、俺と結婚するの嫌になった?」


正直訊くのは怖い。


けれど、ここだけはハッキリさせておきたかった。


自分の気持ちすらわからなくなっている彼女の、最初の本音を。


「!!!岳明は嫌になったの!?」


絶望に襲われた亜季が、縋る様に訊き返してくる。


宥めるようにその背中を撫でて、丹羽はほっと息を吐いた。


「嫌になってなんかないよ。


今もずっと、早く結婚したいと思ってる」


もっと本音を言えば、マリッジブルーが襲ってくる前に、とっとと結婚してしまえば良かったとさえ思っていた。


仕事が落ち着くまでは、と先延ばしにした事が今更ながら悔やまれる。


「だから、亜季の気持ちを訊いておきたくて。


どう?あれから、心変わりした?」


軽い口調で尋ねれば、亜季が涙を堪えて首を振った。


全く目力の無い揺らいだ視線で睨み付けてくる。


「変わるわけないでしょ・・・」


「うん。よかった」


確信はあっても、やっぱりこうして言葉で聞くと安心する。


「つまり亜季は、俺と結婚したいけど、いろんなことが上手く行くか不安で、何から手を付けたらいいか分からなくなってるんだろ?」


「・・・そう・・・なの?」


自分が何に迷っているのかもわからない亜季は、僅かに首を傾げる。


それから、自分の胸に確かめる様に呟いた。


「全部・・・全部のことが不安なのよ」


「分かった。じゃあ、まず一つ目の不安を取り除こう。俺たちの結婚は、間違いなく上手く行くよ」


「・・なんで・・?」


「付き合う前に、あれだけぶつかって言い合いしただろ?


俺は、亜季に避けられまくって、こっぴどくフラれても諦めなかった。


それは、結婚したって変わらないよ。


亜季が、何度俺を嫌になっても、手放すつもりなんてこれっぽっちもないから。


だから、俺に嫌われる心配は、一生しなくていいよ」


「・・・岳明・・」


泣きながら抱き着いて来た亜季が、ごめんね、と告げた。


「謝る事じゃないよ。ちょっとは安心できた?」


丹羽の言葉に、何度も亜季が頷く。


どうやら上手く第一難関は突破できたらしい。


時計を見ると、もう0時半を回っていた。


「じゃあ、今日はここまでにしようか。亜季も泣きつかれただろう?続きは明日、いくらでも聞くよ」


よしよしと頭を撫でて、目を閉じる様に促す。


この際、晩酌の後片付けは後回しだ。


素直に頷いた亜季が、ゆっくり瞼を降ろした。


ここ最近考えすぎてろくに眠れていなかった事も知っている。


せめて今日位、ゆっくり休ませてやりたかった。


「亜季がよく眠れますように」


願いを込めて、額にキスをひとつ。


丹羽のキスに応える様に、亜季がおやすみと言った。

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