第109話 奥さま取扱説明書

低気圧が吹き荒れた時の亜季の取り扱い方法は、佳織から教わった。


言わずもがな亜季の最大にして最高の大親友で、最強の同僚でもある。


亜季に対する愛情の深さなら勿論負けるつもりはないが、過ごしてきた時間と、培って来た信頼の強さにはどうしても劣る。


人間関係は、結局のところ”経験”と”実績”の積み重ねだ。


そう思ってみれば、これまで付き合って来た女性の女友達とは直接コンタクトを取った事は一度も無かった。


必要性を感じなかったし、女同士の嫉妬で面倒に巻き込まれるのはごめんだったので。


機嫌の取り方も甘やかし方も、悩んだ事なんて無かった。


どうすれば女の子が喜ぶのかは”経験”で知っている。


けれど、亜季がどうすれば喜ぶのかは”経験”が少ないので分からない。


とくに塞ぎこんでしまった時は。





「帰りに煙草買いにコンビニ寄ったら、新商品のカクテルが売ってたから買って来たよ。気分転換にどう?」


ついでに見つけました、という風を装っているが、実はこれを仕入れる目的だけでコンビニに寄り道をした。


駅前すぐのコンビニは酒の種類があまり多くない。


少し歩いた場所にある大きめのコンビニまで向かった事は内緒だ。


定番の瓶ボトルに入っている液体は薄いピンク。


いかにも女子受けしそうな商品だ。


丹羽が取り出した瓶をちらっと見て、亜季少しだけ目を細めた。


「桜色」


「春らしくていいだろ?夕飯は?」


「んーバタバタしてて、昼が遅かったから何も食べてない。


岳明は?」


平日は、無理のない範囲で自炊を心掛けている。


丹羽は急な飲み会や接待が入る事も多いので、夕飯を一緒にする事は少ない。


「俺も夕方にラーメンかき込んだから、もういいかな」


「そっか。なんか食べたいなら、冷蔵庫の残りで・・雑炊くらいなら出来るはず・・・あれ、冷やご飯もう無かったっけ?」


ソファから立ち上がろうとした亜季を制して、必要無いよとやんわりと断る。


ついでにいうと、冷やご飯はもうストックが無くなっているし、冷蔵庫はほぼ空の状態だ。


完全に意識が仕事に向いている。


買い物に寄る余裕すらなかった所を見ると、相当切羽詰まった状態らしい。


佳織から何も聞かされていなければ、迂闊に質問をして亜季の地雷を踏む所だった。


ここであれこれ探りを入れずに済むのは本当に有難い。


「それより飲もう。グラス出す?」


「んー。いいよ、そのまま頂戴」


「うん」


とりあえず飲む気になってくれて良かった。


酒が入ると少しは亜季の気持ちもほぐれる。


”責任感と意地の塊”と大親友の佳織が称する亜季は、愚痴を吐き出すまでに時間が掛かる。


言ってもしょうがない事、自分が受け止めるべき事、と色んな理由を付けて、不満を押し殺す。


仕事の事になると尚更そうだ。


自分の立場と、後輩の立場と、上司の立場を考えて、纏めて自分で引き受けようとする。


それが出来なかった時は、ボロボロ泣きながら佳織に朝までグダグダと文句を言ったものだが、それも独身時代の話。


お互い家庭に入ってからは、よほどのことが無いと羽目を外す事は無い。


だからこそ、家での丹羽のフォローが必要不可欠なのだ。


とりあえずはこれを一本。


目新しいカクテルなら興味を引けると思って選んだが正解だった。


栓を開けて手渡すと、軽く瓶を合わせて乾杯した後、すぐに半分ほど飲み下した。


「ピーチ・・?」


「みたいだな。甘いけど、意外とさっぱりしてるな。このメーカーの味は、亜季好みだね」


桃の風味はしっかりあるものの、カクテル特有のしつこい甘さは全くなくて、後味も悪くない。


コンビニカクテルとしては十分すぎる出来だ。


勿論、これ1本で晩酌が終わる訳もない。


すぐにキッチンに取って返した丹羽は、冷蔵庫からスパークリングワインを取り出した。


ナッツとチーズも見繕って、摘まむ事にする。


「岳明はあたしの好きな味よく覚えてるよね」


「そりゃあ覚えるよ。興味あるし。どれだけ一緒に飲んでると思ってる?」


妻の好みを熟知しておくのは夫の義務だ。


きちんと亜季に意識を向けているよ、というさりげないアピールは欠かさない。


仕事場での女帝ぶりとは打って変わって、家に戻ると自信不足の自己嫌悪に陥る事の多い亜季には、常日頃から自分という理解者であり味方がいる事を刷り込むようにしていた。


カッコイイ女でいたいという亜季が、崩れそうな時、背中を支える腕がある事をいつでも覚えておいて欲しいから。


「・・あー・・うん、そうだよね。失礼しました。あたしも結構日本酒詳しくなったよ?」


「うん。焼酎も飲むようになったしね、一緒に飲めるのは嬉しいよ」


「あ、忘れてたな。ただいま」


スパークリングワインの瓶が半分程になったところで、ふと思い出した。


家に帰った後のプランをあれこれ組み立てていたので、それどころでは無かったのだ。


丹羽が少し身を乗り出して、ワインの残る亜季の唇にキスを落とす。


「・・っ・・おかえり・・・あたし、険しい顔してた?」


「・・なんで?」


「ただいまも言わずに、機嫌取らなきゃやばいような雰囲気出してたなら申し訳ないなと思って」


グラスをテーブルに戻した亜季が、ぽすんとソファに凭れかかる。


”丹羽さん。お疲れ様です。佳織です。今日、仕事場で亜季が揉めて、一応納まってはいるんですが、諸々抱えたままで帰宅してるので、フォローお願いします。私も詳しくは聞けていないんですが、どうも古参の社員から嫌味を言われたみたいです”


佳織から届いたメッセージを思い出す。


初めて会った時に、佳織のほうから連絡先の交換を申し出てくれた。


”これから、亜季のことお願いする事になると思うので、連絡先伺ってもいいですか?


丹羽さんも、亜季の事で何かあったらご連絡下さいね”


佳織が全面的にフォローしてきた部分を、譲り受ける形になる。


所謂引継ぎだ。


付き合うまでも、亜季の自立心の強さと頑なさには手を焼いていたので、佳織の申し出は本当に有難かった。


丹羽にとって亜季は”面倒だけれど可愛い”という感情が一番しっくりくる。


どうしてそこまで?と思う程頑固な所も、笑える位甘え下手な所も、一筋縄ではいかない事が多くて、面倒だけれど、懐に飛び込んできた時の可愛さで、それまでの苦労が一瞬で報われる。


一度ハマったら抜け出せない。


気を遣ったつもりが、逆に気を遣われてしまった。


「そんな事無いよ。ちょっと疲れてたみたいだったけど」


「んー・・・疲れた」


ここで”大丈夫”が出て来たら、もう1本酒を用意しようかと思っていたのだが、必要なかったらしい。


きちんと自分の気持ちを吐露出来たら、一安心だ。


目を閉じて溜息を吐いた亜季を、抱き寄せるのではなく、腕を広げる。


「疲れたなら、ちゃんと甘えておかないと」


「・・・うん」


子供のようにこくん、と頷いて、けれどソファの上で動かない亜季の名前を呼ぶ。


「あーき。こっちおいで」


一瞬唇を尖らせて、瞬きをした亜季が、目元を潤ませた。


「う・・ぇ・・・」


何となく泣くかな?とは思っていた。


怒りをぶちまけて、愚痴を零すのでもいいと思っていたが、今日はただただ辛かったらしい。


すとんとソファから降りて、丹羽の腕の中に飛び込んだ亜季をしっかり抱きかかえながら、短い襟足をするりと撫でる。


優しく背中を撫でてやれると、肩にしがみついてきた。


「タオル・・」


「後で持って来るよ」


「スーツ・・」


「どうせクリーニング出すだろ?いいよ。俺の事はいいから、自分の事考えなさいって。泣くほど辛かったんだろ?ちゃんと吐き出して、リセットしないと、明日も戦うんだから」


これは予言だが確信がある。


彼女の持つ強かさは、多少の傷ではびくともしない。


けれど、傷が痛まないわけじゃない。


だから、きちんと泣かせてやれる場所が必要なのだ。


亜季の取り扱い方法をテストされたら、ぎりぎり及第点は貰えるだろうか?


佳織なら、亜季と同じ場所で戦う事が出来るのだろうが、丹羽はそうはいかない。


だから、寄り添うのではなく、抱き込んで守るしかない。


亜季が戦線離脱したいと訴えるその日まで。


きっと願っても言ってくれないだろうけれど。


小さな傷も、大きな傷も、治りかけの傷も、忘れ去られていた傷も。


両腕で抱きしめて、亜季には別の居場所がある事を伝え続けるしかない。


相当強い女だと思われている亜季が、こうもあっさり泣くなんて、恐らく佳織と自分位しか知らないだろう。


もしかしたら、佳織の夫や、亜季の昔の想い人は知っているかもしれないが、今では一番泣き顔を見ているのは自分だと確信が持てる。


意地っ張りで強がりな彼女の鎧を剥がしてまた戦えるようにするのは、他の誰でもない、夫である丹羽の仕事だ。


ひとまず好きなだけ泣かせて、泣き疲れて眠るようならそのままベッドに運んで・・


ウトウトする位なら、ソファで休ませて、その間にアイスノンだ。


泣いた後の腫れぼったい顔をどうにかしないと!と亜季が訴えるのは目に見えている。


泣きじゃくる亜季をよしよしとあやしながら、そのまま眠ってしまったくしゃくしゃの顔を見てもきっとどうせ、可愛いと思ってしまうんだから、いよいよ重症だな、と丹羽は思った。


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