第64話 適量

飲み始めたのは21時過ぎ。


休日だからといつもよりゆっくりしたペースで飲んでいたが、丹羽がおつまみの追加を取りにキッチンに戻っている間に、亜季は缶ビールを2本さらに空けていた。


元から酒に弱いタイプの妻ではない。


それは付き合う前から知っていたので、そう心配はしていなかった。


ましてやここは自宅。


誰に気兼ねする事も無い。


亜季がそのまま眠ってしまっても困る人間は誰一人としていなかった。


丹羽がソーセージとチーズの盛り合わせを手にリビングに戻ると、缶ビール片手に上機嫌の亜季が手を振ってきた。


「おそーいー」


舌ったらずな口調は珍しい。


普段からきびきびと動く亜季は、口調も捌けていて、男勝りな性格だ。


そんな彼女が空になったらしい缶ビールを差し出して、丹羽に満面の笑みでお替りをせがんだ。


「ビール、もう空けたの?」


苦笑交じりで丹羽が亜季の手から缶を受け取る。


すっかり軽くなったそれをテーブル脇のトレイに乗せて、代わりに亜季の口にチーズを放り込む。


「だって、今日は飲むって決めてたでしょーが、そのつもりでー、いっぱいビール冷やしてたんだよね?」


焼酎も飲める口だが、新発売のビールが気に入ってから最近は宅飲みはビールが定番になっていた。


もう少し食べさせたら良かったと思ってもあとのまつりだ。


「そうだけど、最近平日飲んでなかっただろ?」


「その分今日取り戻すんでしょー」


「もう、十分飲んだと思うよ。亜季、珍しく酔っぱらってるし」


妻の前髪を指で掬って、下した指の背で頬を撫でる。


すっかり上気した頬はメイクのせいだけではない。


とろんと蕩けた視線は、真っ直ぐ丹羽に注がれており、そこには少しの不安も不満も見受けられない。


すっかり寛いだ亜季の表情に、丹羽が柔らかく微笑む。


「気分悪くない?」


「んー、上機嫌よー。旦那様はー?」


普段なら罰ゲームでもない限り、自分から夫に向かって”旦那様”なんて絶対に言わない。


ごく自然に零れた呼び名に、思わず丹羽の方がたじろぐ。


「・・・え、ああ、俺も上機嫌だよ」


「そう?なら、ご機嫌なふたりに乾杯しとくー?」


テーブルの上にあった缶ビールはすでにゴミと化しており、残るは焼酎の瓶のみ。


「乾杯はやめとこうか」


さりげなく亜季の視界から焼酎を遠ざけて丹羽が答えた。


「えーなんでよー、今何時?」


「今ー23時半」


「まだ日付変わってないじゃない!」


「そうだけど」


「あたし、まっだまだ飲み足りないー」


いつもの亜季の酒量で考えれば、多いとは言えないが、ここ最近忙しくて平日も飲んでいなかったのだ。


明日は日曜だし、出来るなら二人で出かけるか、家で寛ぎたかった。


どちらにしても、体調不良なんて以ての外だ。


「亜季、そろそろ眠たくなったんじゃない?」


「いや、だめよ、朝まで飲むー」


「朝までも飲めないって」


「舐めんじゃないわよ!あたしの本気見せてあげるわ、ほら、お酒ー」


「そんなとこで本気なんて出さなくていいから」


「えええー、ケチ」


「ケチじゃないよ。ほら、もうお酒はお仕舞にしよう」


言い縋ってくる亜季の背中を軽く叩いて、テーブルの上を片付け始める。


「えええーなら、これからどうするの?」


テーブルに頬をつけて、亜季が思い切り不満そうな顔をした。


「どうしようか?」


食器を重ねた丹羽が、手を停めて亜季に視線を向ける。


悪戯っぽい微笑みに、いつもなら亜季が身構える所だが、すっかり酔っている為に警戒心が働かない。


「まずはー片づけ・・・よね」


「それはいいよ、食器はキッチンに戻しとくから、洗い物は明日にしよう」


「それは駄目、明日に汚れ物は持ち越さないのよ」


急に真顔になって亜季が立ち上がる、がすぐにふらついた。


「亜季、ほら、酔ってるんだから」


慌てた丹羽が立ち上がって亜季の肩を抱く。


「なら、俺が洗い物してくるよ。その間横になるか?」


「んー、いや」


子供の用に首を振った亜季に、困り顔で丹羽が”なら、どうするの?”と尋ねる。


「あたしも一緒にする・・・から。ひとりで行っちゃわないで」


「食器洗いだよ?」


「だーから、嫌だって言ってんの。あたしの話聞いてたーぁ?今日は、ずっと一緒にいるの、そういうつもりで、飲もうって・・・言ったの」


座り込んだ亜季が視線を床に落としたままで呟く。


その手を掴んで丹羽が引き寄せた。


「うちの奥さんはこういう風に甘えるわけだ」


「え?」


呟いた言葉が、亜季の耳に届く前に丹羽の唇が亜季のそれを塞いだ。


「・・・亜季の適量が未だ掴めてないんだけど。今日位飲んでくれたら、俺としては嬉しいよ」


丹羽が嬉しそうに亜季の体を抱きしめた。

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