第100話 お察しください
亜季は、何かにつけて”あたしは女子力が無い”と不貞腐れる。
丹羽はそもそも女子力が具体的にどういうものか正確には理解していない。
緒方の妻である優月曰く、いつもソーイングセットを持ち歩いているとか、常に手元が綺麗だとか、周りへの気配りが出来る、といった事の総合評価的な事らしいのだが、そこに亜季が拘る理由もよく分からない。
そういうのは、20代の結婚適齢期の独身女性がキャーキャー騒ぐ話題なのでは?と思ってしまうが、この手の話題に年齢は関係ない!と一蹴されてしまった。
亜季が気にする女子力について、丹羽は求めた事などないし、彼女の性格を鑑みても、共働きの兼業主婦としては十分すぎる程良くやってくれていると思う。
掃除は得意じゃないし、裁縫はからっきし駄目だし、料理に至っては酒の肴みたいな簡単なものしか作れない。
アイロンかけは未だに苦手分野だし、ゴミ出しの日もよく忘れる。
亜季が気にする些細な事は、お互いがフォローし合えば日常生活に何ら問題は起こらない。
丹羽は家でも晩酌を楽しみたい派なので、妻と気兼ねなく宅飲み出来るのは嬉しいし、地元の地味な居酒屋に連れて行ってもあっという間に馴染んでしまう亜季の気さくな雰囲気が好きだ。
”美人に生めなかったから、とにかく愛想と面倒見だけは良くしなきゃって育てたのよー。
岳明さんが拾ってくれて本当に助かったわー。老後の心配がひとつ減ったわ、ありがとうねぇ”
結婚前に亜季の母親が、食事会の後で丹羽に零した言葉だ。
母親の教育の賜物か、亜季は後輩からも慕われているし、上司や同僚からの信頼も厚い。
話をしやすい砕けた雰囲気を飾らない性格は、人受けする。
事実、丹羽が独身時代から一人で飲みに通っていた、地元の古い居酒屋での亜季の評判はすこぶる良い。
良すぎる位だ。
気難しい職人気質の大将ともすぐに打ち解けて、今では亜季が佳織たちと飲み会で不在の時に一人で顔を出すと、亜季ちゃんは?と真っ先に尋ねられる。
常連客からも亜季ちゃん、と呼ばれているのは、実は内心穏やかではないのだが、黙っている。
付き合う前に感じていた、亜季の強がりで頑なな鎧は、丹羽と付き合うようになってから綺麗に剥がれ落ちた。
”ほんっとに、悔しい位綺麗になった。
あなたが、亜季を綺麗にしちゃったんですね・・・嬉しいけど、ちょっと・・だいぶ、悔しいです”
亜季の大親友である佳織が、結婚祝いを手に新居に遊びに来た時にそう言ってくれた時には、驚いたけれど、素直に嬉しいと思えた。
ずっと亜季を見守って来た彼女の台詞には、重みがあった。
丹羽と出会ってからの亜季の変化を、間近で見つめて来たのは他ならぬ彼女だったからだ。
それと同時に、亜季の周りにいる職場の男たちの事が気になった。
もともとそういう対象ではない、と亜季は自分の事を範疇外評価するけれど、亜季が綺麗に見ないふりをして外した視界の外に、あわよくばを狙うものが居ないとも限らないからだ。
先日、久しぶりに馴染みの居酒屋に二人で飲みに行った時には、顔見知りの学生バイトにまで、綺麗になったと褒められていたし。
言葉通りの褒め言葉だと本人は受け取ったようだったけれど、ああいう目で亜季を見ている人間が大勢いるのかと思うと、やっぱり腹は立つ。
亜季が元から内に秘めていたしなやかさが見事に開花するきっかけを与えたのは他ならぬ自分で、誇らしく思ってよいはずなのに、思わぬ影響力に、若干の後悔が頭を過ったりもする。
身勝手な独占欲については、おくびにも出さずに、鷹揚で余裕のある夫を演じているわけだが、時々、箍が外れそうになって困る。
亜季は、殆ど自分を客観視する事がないので、自分の言動や行動が相手に与える影響を考えないのだ。
亜季のちょっとした一言が、物凄く胸に響いたり、計り知れない動揺を生んだりしているなんて、彼女は微塵も知らない。
営業という仕事柄、駆け引きは日常で、板についたポーカーフェイスは、家庭内でも遺憾なく発揮されている。
格好つけと言われても、やはり亜季の前では、頼りがいのある夫で居たいのだ。
だから、極力嫉妬心は表に出さないようにしている。
亜季が長年恋い焦がれていた相良直純の事も、綺麗に忘れた振りをしている。
同期の飲み会と言われるの度に、ちらりと浮かぶ端正な顔立ちの眼鏡の男の事は、亜季には一切話していない。
顔を知っているからこそ、あらぬ妄想をしそうになるのだが、お互い既婚者で、今更にもあるわけがないと、その度自分に言い聞かせては、楽しんでおいで、と穏やかに送り出すようにしている。
それでもたまに、堪えきれなくなって亜季に甘えたり、付け込んだりしてしまうのだが・・・
午前6時50分。
ベッドを出た亜季がキッチンでコーヒーを入れるのを横目に、丹羽がリビングで出かける支度をしていると、シンクに伏せてあったマグカップを手にした亜季が、あ、と声を上げた。
「なに?割った?」
マグカップをどこかにぶつけたのだろうかと咄嗟に思った丹羽に、顰め面を向けて亜季が首を振る。
「割ってません!音してないでしょ?」
「ごめんごめん、で、なに?」
「取っ手のところにひびが入ってるの・・これ、時間の問題かも」
亜季が自分の部屋から持ってきたマグカップはかなりの年季が入ったものだった。
殆ど顔の見えないクマのキャラクターが書いてあるそれは、かれこれ5年は使用しているという。
同期で旅行に行った時に、佳織たちと買ったものだから捨てられなくて、と聞いていたのでよほど思い入れがあるのだろうと思っていた。
同期で旅行、という事は、間違いなく相良も参加している筈だ。
けれど、それを確かめるのも憚られて、何も訊いたことは無かった。
新聞を畳んでソファから立ち上がって、上着に袖を通す。
今日は支社会議に出席するためいつもより少しだけ余裕がある。
大事そうにマグカップを両手で持った亜季が、キッチンから出て来る。
丹羽はテレビボードの横に置いてある腕時計を嵌めながら、穏やかな視線を亜季に向けた。
「そろそろ新しいのにしたら?マグカップ他にもあるだろ、食器棚の奥に、使ってないのが眠ってるよ、たぶん」
貰いものマグカップがまだ1、2個はある筈だ。
どれでもどうぞ、と促せば、ブラックコーヒーを一口飲んで、亜季が難しい顔になった。
「んー・・」
納得できないなら、無理に新しいものを使う必要もない。
神妙に考え込む亜季の短い襟足を撫でて、空いたままのピアスホールにキスをする。
「それが気に入ってるなら、取っ手が外れたら、接着剤でくっつけるって手もあるとは思うけど」
実用性は無くなっても、思い出の品として保管する方法がある。
新しい提案に、亜季がちらっと丹羽の顔を見た。
それからネクタイを少しだけ直して首を振る。
「・・あの、ね」
言いかけて、言葉を飲み込んだ亜季がコーヒーに視線を落とした。
言いよどむ理由が分からない。
あのマグカップ、実は相良とお揃いなの、とか言われるのだろうかと少々身構えた丹羽に、亜季がもう一度呼びかけた。
「岳明、あのさ」
「うん、なに?」
真正面に回り込んで今度はきちんと視線を合わせる。
肩を優しく撫でると、亜季が目を伏せた。
仄かに赤くなっている頬の意味をどちらに捉えて良いのか分からない。
「お・・お揃いのマグカップ・・とか、困る?」
「・・は?」
「あ、違うの、嫌ならいいの。いい年して新婚全開なのもどうかと思うし!ほんとに気にしないで、ちょっと訊いてみただけで深い意味は全くないから!ほんとに!」
一息で言い切った亜季が、話は終わりとコーヒーを啜る。
紅い頬の理由はこれと分かって、安堵ともに、くすぐったい気持ちが込み上げて来る。
亜季の肩を撫でていた手を外して、前髪を梳いた。
「全然嫌じゃないよ」
答えた自分の声が、柔らかすぎて驚く。
亜季に見えている自分の顔を想像すると、物凄く恥ずかしいけれど、しょうがない。
こういうのをデレデレとかいうんだろうな、と冷静に客観視する自分を失笑しつつ、丹羽が告げる。
「新婚全開のお揃いのマグカップ、買おう。
亜季が何年経っても大事にしたくなるような、とびきりのやつ」
「え・・い、いいの?」
「いいも何も、別に訊く所じゃないだろ?
亜季が本気で気にして、物凄くお揃いのマグカップ欲しがってる事は、今の台詞で居たい位伝わったし」
「っは?いや、だから、ちょっと訊いただけだって!」
「それ、俺の目を見てもう一回言える?」
じっと視線を合わせると、亜季がふいと顔を背けた。
その頬を包み込んで、引き戻す。
「あーきー」
「ご、ごめん。嘘ついたわ・・お揃いのマグカップ買っていい?」
ほんの少しの悔しさと、恥ずかしさが混ざった声が、丹羽の胸をさわさわと擽る。
「・・・」
視線を合わせたのは失敗だった。
「一緒に買いに行こう、俺も行く」
言ってしまった途端、物凄い羞恥心に襲われて、丹羽は天井を仰いだ。
思わず顔を隠して溜息を吐く。
「うん・・え、でも溜息なの?どっちよ?」
軽くネクタイを引っ張る亜季の指を捕まえて、ぎゅっと握る。
こういうのを女子力っていうんじゃないのか!?
俺は散々振り回さてれるよ!
言えない言葉を胸で叫んで、丹羽は小さく零した。
「・・・亜季・・・こういう時は察してくれよ・・」
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