第36話 ラストノート
「お夕飯の前に買い物付き合ってくれる?」
待ち合わせ場所で落ち合うなりそんな風に言われて、丹羽は迷うことなく頷いた。
前回、一緒に買い物に行けなかったので、こういうお誘いは嬉しい。
「いいよ、欲しいものあるの?」
亜季はデートの時に自分の買い物に付き合せるタイプではない。
”待たせるのが申し訳ない””落ち着かない”というのが理由らしく、逆に彼女の買い物に付き合うのが苦ではない丹羽は、もっと連れ回してくれればいいのにとさえ思っている。
けれど、これまでの恋愛経験からしても亜季の中で彼氏と仲良くお買い物という選択肢はありえないのだ。
だから、今日の申し出はとても珍しい事だった。
前回、意趣返しのつもりで買い物終わりの亜季を迎えに行って、車に乗せるなり好きにさせて貰ったので、予防線を張られている可能性も無きにしも非ず。
あの後、顔を真っ赤にしながら必死に非難囂々する亜季を宥めるのは実に楽しい時間だった。
パニックになると語彙力が子供のようになる亜季が、舌足らずになるまで唇を重ねるのは、丹羽にとってはご褒美以外の何物でもない。
「欲しいって言うか」
「うん」
「同期の誕生日プレゼントを選びたいんだけど」
”同期”この場合、亜季の同期で一番に思い浮かべるのは・・・丹羽にとって余り快くない相手。
向こうはきっと自分の事など記憶のかけらにすら残っていないだろうけれど。
亜季が思いを寄せていた女性受けしそうな温和な雰囲気の相良直純という男を思い浮かべる、と同時に慌てて頭の中から抹消した。
「同期って?」
出来るだけ普段通りの口調でさりげなく尋ねた。
亜季は目的の店があるらしく、駅前のメインストリートを百貨店の並ぶ通りに向けて迷いのない足取りで歩き出す。
「いっつも良い匂いのハンドクリーム使ってる子なのよねー。だから、デスクに置いておけるような見た目も匂いもいい可愛いのをプレゼントしたいんだけど」
「ああ・・ハンドクリームね」
亜季の口ぶりから、相手が同性の女の子である事を察して、丹羽が頷く。
ホッとした事は勿論おくびにもださない。
「何店舗かアテはあるんだけど・・20時まであんまり時間ないから、悩んでる暇ないのよ」
駅前のデパートは平日は20時閉店だ。
恐らく亜季が目星を付けている店は複数あるのだろうと予想して、丹羽が腕時計で時間を確かめる。
「19時半か・・週末ゆっくり選べば?」
立てこんでいた仕事も落ち着いたので、土曜日も会う予定にしている。
どうせなら、時間がある時にのんびり決めればと思ったのだ。
けれど、亜季は首を振った。
「明日が誕生日なのよ。絶対明日渡してあげたいの」
「なるほどね」
それなら仕方ない。
亜季の指先を軽く握ってから、そっと指を絡める。
いつもよりスムーズ彼女の指先から力が抜けて、それが嬉しい。
「じゃあちょっと急ぐかな?」
そう言って、点滅し始めた横断歩道を亜季の手を引いて足早に渡った。
亜季が丹羽を伴って訪れたのは、全国展開のボディケアグッズのお店だった。
すでに店の前から良い香りが漂っている。
仕事帰りのOLが数人店内を物色中だった。
ランジェリーショップではないものの、男一人で入店するにはちょっと勇気がいる店ではある。
「一店舗目はここ?」
「うん。もう一軒候補があって、もう1階上にあるバスグッズの専門店。どっちかで決めようと思うんだけど」
すでに視線は店内を彷徨い始めている。
「決めれそう?」
「・・決める!」
意気込んで亜季は店内に踏み込んだ。
定番のラインから、季節限定アイテムや予約受付中の新作までずらりとサンプルが並んでいる。
ここに置いてある総ての商品がお試し出来るようになっているのだ。
化粧水や乳液のスキンケアから、シャンプーやリンス、ボディーソープ。
果ては化粧品に香水、日焼け止めグッズまである。
「凄いなぁ」
素直に感心する丹羽を横目に亜季は定番ラインのハンドクリームのサンプルを試している。
アーモンドオイル配合の匂いも控えめなラインだ。
「こういうお店来たこと無い?」
「そもそも用事ないでしょ」
少し迷ってから亜季が視線を逸らした。
「付き添いでも?」
分かりやすい不機嫌な声に含まれているのは、あからさまな嫉妬。
丹羽が一瞬目を丸くして、それから亜季に視線を送って小さく笑う。
「ないよ」
「そう」
安心したように亜季が一瞬だけこちらを見た。
視線が合った瞬間に丹羽は射抜くように付け加える。
「なんでこっち見て訊かないの?」
「ほっといて!」
反射で応えて亜季がサンプルを元に戻して店の奥に逃げる。
「ほっといてって・・・この状況でそれ言うかな?」
付き合ってと言ったのは他ならぬ亜季なのだ。
つくづくからかい甲斐がある。
根底に愛情があるやり取りは、多少語尾がきつくなってもひたすらに甘ったるい。
丹羽は苦笑しながらその後を追った。
ベリー系やミント系、ムスク系と様々な種類のアイテムが並ぶ棚を横目に亜季は店の奥にある、春の新作アイテムの棚に向かう。
春夏向けのグリーンティーの香りが漂う。
淡い緑の鮮やかなボトルが目に眩しい。
手のひらサイズのハンドクリームのチューブにグリーンティーのラベルが貼ってある。
サンプルを手にとって亜季が目を輝かせた。
「すっごい良い匂い!!」
さっぱりとして、優しい爽やかな香り。
亜季の反応に、すかさず店員が商品の説明をしてくれた。
「使用感もべたつかないですし、保湿力もしっかりしてますし、お勧めですよ」
「凄くいいです」
「自分でも欲しい位ですもん」
「凄く人気の商品ですよ」
「大きさって2種類あるんですか?」
「はい、携帯用とご自宅で使っていただける大きなタイプと2種類ございます」
「これにしちゃおうかな・・どう?」
少し迷った様子で、第三者の意見を求めた亜季が丹羽に向かってハンドクリームを塗った手をかざして来る。
僅かに屈んで顔を近づけると、ふんわりと心地よい爽やかな香りに包まれた。
「うん・・万人受けする匂いだと思う」
「そうですね、この香りは男性にも女性にも人気です。後・・こちらも今回の新作なんですが」
店員がハンドクリームと同じ棚から小さなボトルを取りだした。
「香水ですか?」
「はい、トップノートはグリーン系なんですけど・・柔らかい素敵な香りなんです」
ガラスの容器の中身をひと振りして、お試し用の紙を差し出す。
亜季が鼻先で振るとふわっと匂いが広がった。
「わぁ・・」
新緑を思わせる涼しげな香りだ。
「木蓮も少し入っているので、ミドルノートにかけて華やかな香りになってラストはサンダルウッドの落ち着いた香りに変化します」
「大人っぽい匂いね」
確かに亜季の言う通り、凛とした女性のイメージだ。
「そうですねー働く女性向けです」
頷いた亜季に顔を近づけて丹羽が香りを確かめた。
「凄くいい匂いだけど・・ラストノート気になるな」
「すぐには分かんないわよ」
「半日もすればわかるでしょ?」
これは店員に向けての問いかけだ。
整った容貌で、もともと視線を集める丹羽が柔らかく微笑めば、うっとりしない女性は皆無だ。
「は・・はい」
こくこく頷いて見せた店員の熱っぽい視線には気遣い振りをして、亜季に向かって視線を投げる。
「確かめてみて?」
「え?」
言われた言葉の意味が分からずに首を傾げてこちらを見上げる亜季には、とりあえず笑顔を向けておいた。
「これ、プレゼントにして貰えます?」
と話を進める。
「畏まりました」
にこやかに店員がレジに向かった。
一連のやり取りから綺麗に置き去りにされてしまった亜季が目を白黒させた。
「えっ」
「俺にもプレゼントさせてよ」
いきなりプレゼントとか慣れてないから困る、とその顔に書いてある。
「何で!?」
それなら猶更何か贈りたくなるというのが男心だ。
真顔で問いかけた亜季に向かって丹羽は、逆に問い返す。
「理由いる?」
「っ」
息を飲んだ亜季が、思い切り視線を揺らせた。
見る間に赤くなっていく頬をわざとらしくない程度に指の背でさらりと撫でる。
「それはー・・」
「そこは困るとこじゃないでしょう」
答えに窮した亜季の腕を引いた丹羽が、苦笑交じりに耳元で囁いた。
「ラストノートが分かるまで一緒に居てよ」
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