第68話 返事
1人暮らしが長いと、つい独り言が増えてしまう。
それも無意識のうちに。
誰かに指摘されて初めて、自分の発言に気づいたりする。
★★★
買ったばかりのレシピ本を開いて、亜季は難しい顔で呻った。
”簡単、おしゃれな二人ごはん”という題名に惹かれて購入したそれ。
ついこの間まで見向きもしなかった”2人前”がこんなに気になるなんて。
1人だと、ラーメンを器に入れる事さえ面倒だったのに。
結婚って凄い。
自分の中にある価値観をガラッと変えてしまう。
勿論、見得張っても仕方ない事は分かっている。
それでも、働く妻なりに料理だってある程度は頑張りたい。
手が込んだり、難しいものは、忙しさを理由に嫌厭してしまいがちだけれど。
見た目もおしゃれで、簡単なワンプレート華やかご飯なんて最高。
後片付けも楽だし、何より手早く出来るから。
残業を終えて帰って、パパッと作ってしまえる夕飯は重宝する。
結婚して一番に気づいたは”無理しない事”だ。
お互いマイペースな独身生活が長かった分、譲れない事も多々あるから。
意地張って無理して”完璧”を目指さない。
それが長続きの秘訣なのだ。
だって張りぼての鎧はいつか剥がれるから。
”あたし”がいいって言ってくれた人を”あたし”のままで大事にしたいって思えた。
それは亜季の自信なり、誇りになって、根付いた。
だから、”出来る範囲”で良い奥様を目指して日々修行中なのだ。
「んー・・・タコライスかー・・・色合いは綺麗だけどなー・・・ちょっと手抜きすぎ?あ、でもスープ具だくさんにしてー・・岳明の好きなビーンズサラダつけたら・・・デザートにはフルーツ?グレープフルーツあったっけ?昨日食べたんだっけ・・・さくらぼはどうしたっけ」
写真入りのレシピは創作意欲を駆り立てる。
分かりやすい手順と、時短アイデアが豊富に詰まったそれは、まさに忙しい亜季向けの料理本だ。
冷蔵庫のストックを思い出しながら呟くと、急に返事が返ってきた。
「グレープフルーツは今朝のデザートだったよ。さくらんぼはまだ残ってると思うけど」
「え!?」
レシピ本から視線を上げた亜季が、ソファを背もたれにテレビを見ている丹羽を見下ろして目を剥いた。
「そんな驚く事ないだろ?」
妻の声に驚いた顔で、丹羽が見上げてくる。
「今あたし喋った?」
「ずっと喋ってただろ?」
「嘘!」
「ほんとだって、てっきり俺に話しかけてるんだと思った」
「ち、違うから!」
「独り言?にしては偉く長かったけど」
「口に出してる自覚無かったのよ!やだ!あたしもしかして、しょっちゅうこうなわけ!?」
「しょっちゅうって言うか、亜季、独り言多いよ」
「えええ!ちょっと、岳明!注意してよ!」
「注意って、わざわざ指摘する事でもないだろ?」
呆れた顔で丹羽が答える。
「やだー、何かすっごい嫌だ!あたしが思ってる事筒抜けなんじゃないの!?」
レシピ本を閉じて顔を覆った妻を見て、丹羽が笑う。
「筒抜けっていうか・・・」
立ち上がると、亜季の隣に腰掛けた。
「漸く、ちょっと肩の力抜けたかな?」
柔らかく微笑んで亜季の短い髪を撫でる。
「亜季が無意識に独り言呟ける位、この家でリラックスしてるって事が、俺は何より嬉しいよ」
100点満点の夫のセリフに亜季がレシピ本から少しだけ視線を丹羽に向ける。
と、伸びてきた手に本を奪われた。
「勿論、俺の為に夕飯考えてくれるのも凄く嬉しし・・・手抜きなんて思わないよ」
「っ!」
亜季がさっき呟いたセリフへの返事だ。
今更ながらレシピ本を取り上げられた事を後悔するがもう遅い。
仕方なく両手で顔を覆ったら、丹羽の腕が背中に回された。
「そこで照れないでよ」
優しい声音と共に頭を撫でられる。
多分、丹羽以外には考えられない。
彼以外誰もこんな風に亜季を”女の子”として扱ってくれない。
「・・・いかにも新婚って感じで楽しいけど」
心底楽しそうな丹羽のセリフ。
髪を梳いて肩に下りた指が項を辿って耳たぶに触れる。
「自分で新婚とか言わないでよ」
「何で?事実なのに」
亜季の反応を愉しむように、丹羽の唇がわざと耳朶を掠める。
吐息が産毛を擽って、ざらりとした舌の感触が耳殻を撫でた。
堪らない感覚に亜季が体を捩った。
「もっとしてほしい?」
目を細めて尋ねた丹羽が、亜季の答えを強請るように唇に触れるだけのキスをする。
「んっ・・・馬鹿・・っん・・・それ反則!」
「でも嫌じゃない」
「っ!あたしそんな事まで言った!?」
ぎょっとなった亜季の頬にキスをして丹羽が笑った。
「顔見れば分かるよ」
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