第98話 赤くなるところも可愛いよ、奥さん

自分が、ジュエリーブランドに勤務していると日常的に意識する事は殆どない。


配属先が販売や営業、商品部門だったなら、出来上がった製品にしょっちゅう触れて、女性が憧れる貴金属を扱っているのだと実感できたかもしれないが、生憎亜季の所属は工程管理で、製品が出来上がるまでの過程を管理する部署だったので、磨かれる前の原石の色石や真珠たちに触れる機会の方が多かった。


だから、普通の女性と同じように、新作のジュエリーがお披露目さるとその度にはしゃいでしまう。


それは総務部の佳織も同じで、照明を受けて無敵の輝きを放つダイヤモンドには眩しそうに目を細めるし、まろやかな光彩を纏う真珠には目を凝らす。


慣れた手つきで扱えるのは、しょっちゅうけた違いの製品を扱っている暮羽や和花くらいのものだ。


社内報で紹介される新作コレクションは、いつも眺めてお終いにしてしまう。


老舗ハイブランドの名に恥じないお値段は、社割が効いてもなかなか手を出せるものではない。


いつつけていくの?とか、それに見合う価値のある女かあたし?とか。


いっつも自問自答をして、終わってしまう。


結婚指輪ですら、もうちょっとお安い物でも・・と思ってしまった庶民派なのに。


そう言う所、丹羽は踏ん切りが良くて、生涯付けるものだから、一番気に入るものにしよう、と迷い足の亜季の背中を押して、結婚指輪の値段ではないものをあっさり選んでしまった。


今では左手に馴染んで気に入っているが、付け始めた頃はやたらと左肩が凝ったものだ。


緊張していたんだと思う。


最近では男性も結婚指輪を嵌めるのが主流だけれど、丹羽が迷わず俺もするよ、と答えてくれた時は嬉しかった。


丹羽は何も言わないけれど、彼がかなりモテることは、出会ってすぐに察しがついている。


整った容姿で、すらりと背も高くて、その上営業で話し上手の聞き上手。


女性受け抜群の温和な雰囲気だし、取引先の女性陣からすこぶる人気だと、いつだったか上司の緒方から聞いたことがある。


契約を取って来るのが営業の仕事なので、人気があるのは勿論妻としても嬉しい事だ。


けれど、女性人気は、あまり有り難くない・・


そんな彼なので、結婚指輪は多少なりとも牽制になると思えた。


だから、今日は物凄く落ち着かない。


なぜなら、丹羽の結婚指輪は今、亜季の手元にあるからだ。


汚れて来たから磨きに出すね、と預かったのだが、元から指輪を嵌める習慣のない丹羽は、代わりに嵌めておく指輪が無い。


それは亜季も同じだが、丹羽の指に結婚指輪が無いのは不安で仕方ない。


取引先の女の人から色目使われてたらどうしよ・・・


上手く切り抜ける手腕を持っていると信じてるけど、信じてしまえる自分がなんか、ちょっと、嫌だ。


どう考えたって、亜季より数倍恋愛している筈だし、好みでない女性から言い寄られたこともあるに違いない。


そもそも、最初に食って掛かった亜季をのらりくらりとはぐらかしつつからかった丹羽なのだ。


女性のひとりやふたり、簡単に捌けてしまうだろう。


なんだか、悔しい。


朝イチで出した磨きは仕上げ工程を経て、経った今手元に戻って来た。


ぴかぴかになった指輪は、見ているだけで嬉しくなる。


自分の指輪を先に嵌めて、ちょっと迷ってから丹羽の結婚指輪も左手に嵌めてみる。


案の定ぶかぶかだけれど、それがなんだか嬉しい。


「亜季ー顔緩んでるけどぉー?」


「ひゃああ!!」


真後ろから抱きつかれて、亜季は盛大に悲鳴を上げた。


「なによー色気のない悲鳴ねぇ。あんた、人妻なんだからもうちょっと色っぽい悲鳴あげなさいよねー」


こんな事をする悪友は一人しかいない。


「セクハラで訴えるよ、佳織!悲鳴に色気求めるとか、あんた樋口に何吹き込まれてんのよ」


「べっつにーなにもーお」


「嘘。最近あんたの色気が凄まじいって営業が言ってたわよ。ほんっと嫌になるわっ」


睨み付けた佳織は、確かに最近艶っぽい。


角が取れて、女っぷりが上がっている。


これが樋口の手腕かと思うと、複雑な気持ちになる。


「あらーそういう亜季ちゃんこそー。髪伸ばしてるって聞いたけどー?旦那の好み?」


「っは!?違うわよ!襟足だけ、日焼け防止で伸ばそうかなって」


「ふーん・・・はいはい。まあ、仲良さそうで結構ですけどー?なーに、旦那の結婚指輪?」


亜季の頬を突いた佳織が、左手の薬指に向かって手を伸ばす。


慌てて庇うように胸元に抱き込んだ。


「あ、やだ!これはあたししか触ったら駄目なやつよ!」


亜季の発言に、佳織が目を丸くして爆笑した。


「やっだ!!なに!超乙女じゃないのーもー!最近あんたほんっと可愛いわね!ムカつくわー」


一緒に帰れそうだから、選んだワンピースじゃない。


今日は、たまたまワンピースが着たい気分だったのよ、それだけよ!


”デートだからその格好なのー?良く似合ってるけど、このスリットが憎いわね。


あんた足綺麗なのよねー羨ましいわ。


丹羽さん大喜びじゃないのー?”


帰る間際の佳織のからかい声が蘇る。


佳織ってば最近樋口に似てきたんじゃないの!?からかう口調がもうほんっとそっくりで、ムカつく!!


綺麗と褒めて貰えた足は、こまめな浮腫み取りが功を奏していつもおりほっそり見える。


発汗ジェルを揉みこんだ甲斐があった。


何となく立ち姿まで気を付けたくなるから、親友の言葉の威力はすごい。


駄目駄目な時期も知っているお互いだから、褒めてくれた言葉は100%真に受ける事にしている。


佳織の艶っぽさは醸し出せないけど、綺麗なお姉さんでは、ありたい。


待ち合わせた居酒屋に着くと、大将が笑顔で迎えてくれた。


「なんだ!めかしこんでるじゃねぇか。どこのべっぴんさんが来たかと思ったぞ」


「し、仕事帰りなんですっ!いつも適当ですみませんっ」


ここに来る時は、大抵ラフな格好なので、綺麗めワンピースの亜季は初お披露目だ。


馴染んだ席についても、なんとなく落ち着かない。


上着を脱いで椅子に掛けたら、ちょうど丹羽が入って来た。


「こんばんは。亜季来て・・・ああ、来てたんだ」


「お疲れ様。いまついたとこよ」


「お疲れ・・なんか変な感じだな」


「あーそういう事言う?結構頑張ったのに!」


「ああ、ごめん。そういう意味じゃないよ。そういや仕事帰りにここに来た事無かったなと思ってさ。ちょっと新鮮だった。珍しいな、ワンピース?」


今朝も先に出勤した丹羽は、亜季の服装を見ていない。


「うん・・たまにはいいかと思って」


「へー・・その服は見た事無いな。立って見せてよ」


「ええ?」


「いいから、ほら」


指定席までやって来た丹羽が、亜季の椅子を引いて手を取る。


流れるようなエスコートにつられて思わず立ち上がってしまった。


ぐるりと亜季の周りを一周して鑑賞した丹羽が、顎に手を当てて真面目な顔になった。


「・・・後ろ姿がなんか色々やばいね。上着、コート?」


「え?うん、いつものコート」


「ああ、なら良かった」


脹脛まで隠れる長めの丈は今年の主流で気に入っている。


頷いた丹羽が、すいと指を伸ばした。


「亜季って、項から背中のラインがすごく綺麗なんだよ。いつもは綺麗に隠れてるから安心なんだけど、今日はちょっと・・・このスリットも・・」


大好きな旦那様から褒められるのは物凄く嬉しい。


けれど、物凄く恥ずかしい。


「まじまじ見ないでっ!・・っちょ」


肌を辿る指が項から背中に落ちる。


衿ぐりが前後ともにVカットになったワンピースの為、遮るものが無い。


しかも亜季の短い髪は、背中を覆ってはくれない。


完全無防備な背中を丹羽の温かい指が伝う。


「少なくとも、俺に見せる為に着て来た服だろ?違う?」


慌てる亜季の顔を覗き込んで、丹羽が小さく尋ねた。


「分かってるなら聞かないの!」


不貞腐れて言ったら、丹羽が宥めるように背中を撫でた。


その左手に、違和感を覚える。


「あ!」


「なに?」


「結婚指輪よ、綺麗にして貰ったから!すぐつけて、今すぐ!」


いそいそとカバンから新品同様に生まれ変わった丹羽の結婚指輪を取り出す。


「ほんとだ、綺麗なってる・・ありがとう。やっぱりこれがないと落ち着かなくてさ」


「それはこっちの台詞よ!」


「え?なんで?女性はともかく男は別に気にしないよ」


「・・・岳明はそうかもしれないけどっ」


「ああ・・・他所の女にちょっかいかけられるかもしれないって心配してくれたんだ?」


茶化すような甘い声に、亜季が唇をへの字に曲げた。


「だ、だって、営業だし、色んな会社に行くわけでしょ?」


「俺が結婚してる事は、殆どの得意先が知ってるよ」


「そうかもしれないけど、これがあるのとないのじゃ、大きな違いがあるのよ!」


「はいはい。分かったよ、すぐ嵌める」


苦笑いした丹羽が、左手の薬指に結婚指輪を嵌め直す。


その手を亜季の前に翳した。


「これでいい?」


「うん・・・良かった・・」


「なんだ、そんな事で安心してくれるのか。じゃあ、これから毎朝出かける前に確認してくれて構わないよ?いってらっしゃいのキスの前に、ぜひどうぞ?」


にやっと笑った丹羽が、気を遣って奥に引っ込んだ大将にいつものやつ、と注文を投げる。


投げられた挑戦状に、返す言葉が見つからない。


俯くまいと必死に堪える真っ赤な亜季の耳元で、丹羽が囁いた。


「赤くなるところも可愛いよ、奥さん」

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