第25話 大人自慢

今日のこの瞬間まで、自分をそれなりに立派な大人だと思ってきた。


ほぼ30年生きてきたわけだし。


それなりに人生経験も積んできたし。


恋もしたし、失恋もした。


好きな人と朝まで過ごしたことだってある。


そう・・朝まで・・・



★☆★☆



「どうする?」


穏やかな声で、最終審判は亜季に委ねられた。


帰らなくていい理由を必死に探していたら、そんな風に言われて驚いた。


いつの間にか、心の声を言葉にしていたのだろうか?


そもそも帰らなきゃ、がいつの間にか帰りたくない、に変換されてしまっている。


この数十分間の様々な出来事によって、自分の中の価値観すら狂ってしまったのかもしれない。


「あのっ」


「踏ん切りつかない?」


「・・・」


目を覗きこまれたら、物凄く困る。


多分、もう全部顔に出てる。


”帰りたくない”って言ってしまっている。


間違いなくこちらの戸惑いも迷いも、ほんの僅かな期待も、全部見透かされている。


伏せようとした瞼を、丹羽がそっと親指でなぞった。


こめかみを包み込む指がトンと優しいリズムを刻む。


「それとも俺が帰るなって言えばいいのかな?」


「・・そーよっ」


言ってしまってから死にそうになる。


この一言だけで、もう顔から火が出そうだ。


余りにも大胆過ぎる自分の行動に、一番戸惑いを隠せないのは亜季自身だ。


前に、こんな風に訊かれたのはいつだった?


その時もこんなに恥ずかしかった?


グルグル自分に問いかけるも答えなんて何にも出てこない。


だって目の前の男のことしか考えられない。


だけど、このまま帰ってしまったら、また尻込みする自分は目に見えていた。


会社を一歩出てしまえば、亜季は全く自分に自信のない女に成り下がる。


それを、痛いくらい自覚している。


やけくその答えを聞いた丹羽は、ひょいと眉を持ち上げてしてやったりの笑みを浮かべた。


「なら、もっと早く言えば良かった」


指の背で甘やかすように頬を撫でられて。さらに熱が上がっていく。


「だって!!あたしから言えるわけないでしょ!か・・帰りたくないとか・・」


「言えばいいよ?」


「は!?」


何を言わすかこの男は。


ぎょっとなった亜季に向かって丹羽が勝ち誇った笑顔で告げる。


「これからは」


「あ・・」


「帰りたくないなんて、最高の殺し文句じゃない。会うたび言ってよ。それ」


「じょ・・冗談じゃないわよ!」


カッとなって言い返す。


何度こんな風に喧嘩口調で突っかかったか分からない。


けれど、丹羽は少しも悪びれずにさっさと亜季の肩を抱いて歩き出す。


「じゃあ、気が変わらないうちに連れてってもいい?」


「ど・・・どこに?」


間抜けすぎる問いかけに、丹羽がニヤッと笑った。


「・・帰れないとこ」


「うそ!!」


真顔で突っ込んだ亜季の髪を撫でて丹羽が可笑しそうに続けた。


「帰りたくないんでしょ?」


違うの?と視線で問いかける。


こういう視線が一番狡いって分かっているくせに。


綺麗に掌で踊らされた自覚があるから死ぬほど悔しくて腹立たしいのに、居心地だけは最高だから離れられない。


「か・・帰したくないんでしょ?岳明が・・」


意趣返しのつもりでねめつければ、丹羽は答えずに黙って微笑んだ。




★★★★★★




自分の携帯じゃないアラーム音。


慣れない肌触りのベッド。


いつもは頭から差し込むはずの朝日が今日はなぜか届かない。


伸ばした腕がシーツを滑る。


肩にかかる知らない重みに、亜季はゆっくり目を開けた。


ここがどこか分からない。


ぼやけた思考でうつらうつらを夢と現実を行き来する。


佳織にはさんざん馬鹿にされるが未だにベッドにいるお気に入りの犬のぬいぐるみが見当たらない。


肩にあたるそれが茶色のヤツかと思って触れてみる。


温かい。


明らかにぬいぐるみの重みと温もりではないそれは、頬を寄せたくなる位心地よい。


「・・・ん・・・寒い・・」


空気に触れた肌がぞくりと冷えて、思わずその温もりに肌を寄せる。


と、なぜだか5本の指が素肌の背中に触れた。


5本の指がある犬のぬいぐるみなんて当然ながら持っていない。


待て、5本の指があったらそれはそもそも犬じゃない。


それはー・・


亜季が考えるよりも先に、枕元で寝起き特有の掠れた声がした。


そのまま腕の下に抱きこんで肩までシーツで覆われる。


「ごめん。寒かった?」


「・・・」


瞬きをゆっくりと合計3回。


こちらを覗き込んできた丹羽の視線を受け止めて亜季はやっと覚醒する。


ここは・・・駅前のタワーホテルだ。


「夢じゃないの?」


ぼんやり呟いたら、丹羽が吐息で笑って頬にキスを落とした。


「現実だけど?覚えてる?」


問いかける声に潜む甘ったるい熱に、昨夜の記憶が足先から這い上がって来る。


心臓が大きく鳴って、あらぬ場所がじわりと潤んだ。


呼び止めたタクシーに行き先を告げたのは丹羽で、亜季は黙ったまま繋がれた手をぼんやりと眺めていた。


到着したのが見慣れた駅前のタワーホテルで、慣れた様子でチェックインする丹羽に向かって胡乱な視線を送った事も覚えている。


どこの女連れて来たのよと視線を投げれば。


「仕事で終電逃した時とかによく使うんだよ」


「ふーん・・・」


何と無く視線をそらした亜季に向かって丹羽が苦笑する。


「ここに誰かと泊まったことは無いよ」


「別に聞いてない」


ツンと言い返して、エレベーターホールに向かう亜季に追いついた丹羽は笑いながら言った。


見下ろす眼差しは相変わらず優しくて、けれど、これから先の行為を思わせるどこか艶っぽい表情で、丹羽の掌が亜季の背中を優しくエレベーターへと誘う。


「もういい加減、そうやって意地張るのやめたら?強がることないだろうに。強気なのは嫌いじゃないけどふたりきりの時まで必死にならなくてもいいんじゃない?」


何階で降りたのかも覚えていない。


丹羽がカードキーをドアに差し込んだところは覚えている。


肩に触れた手が思いのほか熱かった事まではっきりと。


だって、強がってないと不安なのだ。


足元から崩れ落ちて、もう二度と立てなくなりそうで。


意地でも見栄でもプライドでも、意固地でも強がりでも。


じゃなきゃ”あたし”は”山下亜季”でいられない。


シーツの波間に身を委ねて、丹羽の唇を受け入れたら、一つ自分の中の強がりが解けた気がした。


亜季の肩の力が抜けた事を見抜いたのか、丹羽が首元で揺れる短い髪を指先で撫でる。


耳たぶで揺れていたパールのピアスに唇が触れて、吐息が頬にかかって、それでやっとこれが紛れもない現実で、これから目の前の男に抱かれるんだと思い知った。


傷つかないように何重にも予防線を張っていつも自分を守ることばかり考えていた。


遊び半分でやった何かの占いであなたの性格は”いばら姫”と出て思いのほか当たっていて驚いた事を思い出す。


深い深い茨の奥で”たったひとり”を永遠に待ち続けたお姫様。


自分から茨を破って世界と関わろうとは決してしなかったお姫様。


怖がりで、臆病で、夢見がちなお姫様。


頭に浮かんだ何かの言葉を亜季が口にしたら、慰めるように丹羽が額にキスを落とした。


そして優しく優しく告げられる。


「隙見せてもいいよ。・・・もう大丈夫」


溺れたのは多分、亜季の方が先だった。


絡めた指、触れた体温、鈍る思考。


馬鹿みたいな事をうわ言のように沢山零した。


不安だとか、怖いだとか。


けれどその一つ一つににちゃんと丹羽は答えをくれた。


濁って行く記憶の隙間に貰った言葉は吐息と一緒に消えて行って、そして、亜季の心は柔らかく解けて行った。


まばたきのたびに目の前に落ちてくる昨夜の記憶。


思い出すたびシーツに潜り込みたくなる。


まともに丹羽の顔を見れなくて俯こうとしたら髪を撫でられた。


遠慮なしの力でしっかりと抱きしめられると、触れ合った肌から煙草と香水の香りがした。


額にキスが落ちて、目を閉じれば頬にも唇が触れる。


昨夜飽きる位したはずなのに。


「そろそろ起きないと。始業何時?」


「・・・9時・・」


身体が不自然にだるい。


それが昨夜の行為を思い出させて、余計現実感が増してくる。


「今6時過ぎ」


そう言って丹羽が亜季の背中を優しく撫でてから先に身体を起こした。


まだ起きようとしない亜季の顔を覗き込む。


「おはようのキスいる?」


何と言い返そうか迷ってけれど素直に頷く。


昨日記憶を手放す前に決めたのだ。


意地っ張りはやめること。


「・・・いる」


頷いた亜季に丹羽の唇が降ってきた。

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