第89話 気が済んだ

休日のデパ地下の混雑ぶりは尋常ではない。


覚悟していたものの、通路を行き交う人の押し合いへし合い具合にぐったりしそうになる。


それでも戦線離脱せずにいるのは、獲物を狙うかの如く視線を鋭くして、品定めをする亜季の為だ。


荷物持ちが必要と分かっていながら放置するわけにはいかない。


お気に入りのショップから届いたセール開始案内に、バーゲンは最初の週末が要だから!と連日の残業疲れを跳ね飛ばす勢いで早起きした彼女は、昼前から歩き回っているにも関わらず、少しもくたびれた様子を見せない。


それだけ気を張っているという事だろう。


歩きやすさ重視で選んだフラットシューズと、両手を開けるためにクローゼットの奥からショルダーバッグを出してきた時から、亜季の本気を感じていた。


ショッピングに胸をときめかせるのは女性共通の感覚だし、それに付き合うのは言わずもがな夫の役目だ。


前から目星をつけていたという、一番人気のタイトワンピースを開店直後に手に入れたことが弾みになって、亜季の機嫌は一気に上がった。


その後も行きつけのショップを回って、この夏のトレンドアイテムを次々お持ち帰した為、丹羽の肩にはすでに大きな紙袋が4つもかかっている。


それだけでは事足りず、亜季の腕にも買ったばかりの籠バックの入った紙袋がぶら下がっていた。


ランチの後に一気に増えた荷物をそのまま持ってカフェに行くのは億劫で、一度駐車場に戻ろうと相談したところで、亜季がもう一つだけ先に買い物をしておきたいと言った。


ずらりと並んだ人の列に合流して、エスカレーターを下りながら、見えてくる惣菜やスイーツに目を輝かせる亜季の横顔を眺める。


なにもこんな昼下がりの混み合う時間帯に、地下食料品売り場に向かわなくても・・・


百貨店と直結している立体駐車場に車を止めたので、歩く距離はそうない。


日光は遮断されているし、食料品を買ったところで問題はないが、先ほどの服飾店舗と違って、さらに店舗数が増えた地下では、通路が極端に狭くなる。


人の量もさっきのフロアとはけた違いに多い。


この荷物でうろうろするのは結構堪える。


邪魔にならないように紙袋を手に持ち替えて、亜季の荷物を受け取ろうと口を開いたら、先に彼女がこちらを振り向いた。


「荷物多いのに寄り道させてごめんね」


まるでこっちの気持ちを見透かしたようなセリフにドキッとする。


「いいよ。急ぎで欲しいものなんだろ?そっちの紙袋も持つよ」


岳明が差し出した手に、素直に紙袋を預けながら亜季が頷く。


強気と勝気が8割を占める妻が、しおらしく謝ってみせた。


仕事モード全開の外向きお局顔(もちろん本人には言っていない)がなりを潜めて、人妻、丹羽亜季の顔を見せるたび、いまだにどぎまぎしてしまう。


これが世にいうギャップというやつだ。


結婚するまで実感したことがなかったけれど”なんでも自分で”が当たり前の普段の亜季が、ほんの少し甘えてくれるだけで何とも言えない満たされた気持ちになる。


征服欲と独占欲が満たされるというのはこういう事だろう。


「ありがと。どうせなら、重たいもの先に買っちゃおうと思って。休日のおやつは、帰り際もう一度見に来ても・・いい?」


狙いすましたように上目遣いで尋ねられて、一も二もなく頷く。


「好きにしたらいいよ。週末は亜季の為に使うって昨夜言ったろ?」


見事にすれ違った平日の埋め合わせのつもりで申し出た言葉だ。


先週、接待ゴルフで土曜日も家を空けたことに対するお詫びのつもりもあった。


今朝から溜まっていた食器を纏めて片付けにかかる亜季が、買い物に付き合ってほしいと話した時に返した言葉だ。


けれど、そのあとに続けた言葉の方が、亜季の記憶には残ったようだった。


「でも、夜の時間は俺が貰うから」


洗いかけの大皿を滑り落とす程度には衝撃的だったらしい。


亜季の半期決算の報告業務と、経費処理。


丹羽の後期キックオフに向けたプレゼンの準備。


定時以降に会議や打ち合わせが詰め込まれた6月下旬。


家には寝に帰るだけの日々が続いていた。


夫婦らしいスキンシップもめっきり減っていた。


言ってしまえば、ここ最近、常に亜季が不足している状態だったのだ。


ようやく自由な週末を迎えた昨夜こそ、思う存分甘やかそうと思っていたのに、綿密に練られた翌日のタイムスケジュールを聞いてしまったら、夜更かしさせるわけにはいかなくなった。


色々と我慢が続いた3週間だったのだ。


夫婦間での駆け引きは褒められたものじゃないと思うけれど、交換条件のように言わずにはいられなかった。


洗い桶の中に沈んだ大皿を拾い上げながら、耳まで真っ赤になった亜季の横顔が妻のそれで、さらに満たされた気分になった。


デパ地下は、男が一人でウロウロするような場所ではない。


亜季への手土産を買う時にたまに寄り道するけれど、物見遊山で店舗を覗くことなんて殆どない丹羽は、迷うことなく人込みをかき分けて進む亜季の背中を追うしかなかった。


案内されたのは、チーズ専門店とディニッシュが人気のパン屋のさらに奥。


地下食料品売り場の西の端に当たる一角だった。


棚一面にずらりと並べられた見慣れたボトルを目の前にして、漸くその答えが分かった。


「ワインボトル、重たいから一緒に運んだほうがいいかなと思ったのよ」


「いつの間に行きつけのワインショップなんて見つけたの?」


「行きつけって程じゃなくて、ふらっと見て回ってたら、試飲しませんかって声掛けられたのよ。ワインのことよく分かんないし、味見だけと思ったんだけど、親切に色々教えて貰えて、それからちょくちょく寄るようにしてるの。せっかくだから、岳明と一緒に選びたくって」


亜季と結婚して良かったことは、彼女も酒を嗜むことだ。


家でふたりで晩酌を楽しめるのは、趣味が合う事以上に嬉しい事だった。


慣れない手つきでビールを注ぐ優月を、蕩けそうな甘ったるい表情で愛でる緒方の気持ちも分からないではないが、どうせなら一緒に愉しみたい。


「デパ地下に来る楽しみが増えてたわけだ。それにしても種類が多いな・・」


ワイン初心者にもわかりやすいように、産地や甘さ、飲みやすさや、おすすめの食べ合わせおつまみなんかも紹介されている。


店員の細やかな気遣いが表れている店づくりだ。


これなら亜季が惹かれるのも納得だ。


気になる銘柄を眺めていたら、奥から店員がやって来た。


「いらっしゃいませ!先日はご購入ありがとうございました!さっそく試されましたか?」


人懐こい笑顔が印象的な若い男性店員だ。


「教えてもらった通り、トマトと牛肉の煮込み料理を作ったら、ほんとにワインに合って美味しかったです。作り方も難しくなかったし、数少ないレパートリーに加わりました」


にこやかに答えた亜季に、さらに店員が笑みを深める。


恐らく彼が試飲を勧めてくれた店員なんだろう。


「この前のワインがお好みでしたら、似たような飲み口で、もう少しフルーティーなものが入荷したんで、お持ちしますよ」


「ほんとですか?どうしようかな・・・」


少し迷った亜季が、ここに来てようやく丹羽の方を振り向いた。


存在を忘れられていなかった事にホッとして、同時に妙な苛立ちを覚える。


ただの客と店員のやり取りで、それ以上の何かなんてある筈もないのに面白くない。


「前に亜季が気に入ってたやつだろ?なら、同じものと、違うもの何本か見繕って貰ったら?


来週からは、俺も早く家に帰れるし、二人でのんびり晩酌できるよ」


無意識に語尾を強調してしまったのは、牽制の為だ。


彼女の薬指の指輪に気付いていない筈はないと思うが、恋人同士だと勘違いしている可能性もある。


「じゃあ、この際だから3,4本買っちゃおうかな」


「いいよ。重たい荷物は俺がいる時に買えばいい」


そうして、一人でこの店に来る機会が減ればいい。


丹羽の言葉に、亜季が上機嫌で両手を叩いた。


「主人もこう言ってる事ですし、今日は思い切り甘えちゃうことにします」


彼女の口から出た”主人”の言葉に、それまで胸の奥でわだかまっていた重たい靄が一気に消えた。


結婚しているのだから、こう答えるのが普通なのだが、それでも亜季が口にすれば、物凄く特別な言葉に聞こえる。


お勧め出して貰えますか?と笑いかける亜季に、店員が勿論です、と愛想よく応じる。


「ご夫婦で休日デート、素敵ですね」


「・・はい・・」


デート、という単語に頬を染めた亜季が丹羽と目線を合わせて微笑んだ。


無意識のその仕草が堪らなく愛しくなる。


亜季好みのワインが揃う棚に案内する店員の後に続きながら、さっき預かった籠バックの紙袋を、彼女に向かって差し出した。


「ワインボトルは任されるから、こっちは持ってくれる?」


「あ、うん!勿論、持つわ」


弾かれたように手を差し出した亜季の手首を掴んで軽く引く。


近づいた彼女のこめかみに、一瞬だけ唇で触れた。


瞬きをした亜季の睫毛が震えて、視線が固まる。


「・・・っ!」


背の高い棚に囲まれているとはいえ、ここは店舗だ。


いつ店員が振り向くともしれない場所で、こんな暴挙に出るなんて、自分でもどうかしていると思う。


それでも、我慢できなかった。


困惑気味の亜季の手首に紙袋を通してやる。


「ごめん、気が済んだ」


「!?」


何事かと瞠目する亜季を追い越して、赤い顔を隠す位置に移動しながら、丹羽は頬が緩むのを抑えられなかった。

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