第49話 未来の提案
「亜季?今大丈夫?」
「うん・・・平気だけど、どうしたの?今日忙しいって言って無かった?」
急に丹羽から連絡が来たのは17時を回った所だった。
定時を回ってはいるが、当然帰れる訳も無く。
いつも通り、1時間少々残業をこなすつもりだった。
が、予想外の電話に、震える携帯を握って急ぎ足でフロアを離れる事になった。
心なしか小声になるのは、電話の相手が恋人だからだ。
定時を過ぎているし、別に誰も電話を咎めるような事はしない。
それでも、何と無く落ち着かない。
自分でも驚く位柔らかくなる”恋人仕様”の声が、他の誰かに聞かれるのが恥ずかしくて堪らなかった。
「雨だな、と思ってさ」
「え・・・?あ、本当ね。降り出してたんだ。一日室内に籠ってたから全然気付かなかった。今日も外回りだったの?」
「うん、さっきまで外」
「そう、お疲れ様」
「ありがとう」
丹羽は物凄く簡単に”ありがとう”という。
亜季が躊躇って口ごもってしまう様な、愛情表現の言葉も、サラリと声にする。
”ありがとう”の一言に込められた亜季への愛しさが、ちゃんと響いて、嬉しくて恥ずかしい。
「うん・・・明日も雨みたいねー」
エレベーターホールの窓から見える空模様は、濁っている。
大きな雨粒が街を覆って、見通しも良くない。
気持ちまで重たくなる様な景色だ。
「雨だから、泊まりに来ない?」
「・・・え?」
その理由が分からない。
”雨”だから?
きょとんと尋ね返したら、丹羽が小さく笑った。
「駅から亜季の家まで歩くより、俺の家に来る方が、ずっと濡れずに済むよ」
その言葉に、漸く納得する。
亜季の最寄駅から、自宅までの距離は徒歩10分少々。
信号に捕まれば、もう少し時間がかかる。
その点、丹羽のマンションは駅から直結の地下街を通れば、ほぼ濡れずに済む。
確かに、この雨なら、亜季が家に着く頃には足元はびしょ濡れだろう。
濡れる事を覚悟で、膝丈のスカートにサンダルで出勤した。
ロッカーでパンストを履けば問題ないし、パンツだと沁みが気になる。
「それは素敵なお誘いだけど・・・今日は遅くなるんじゃなかったの?」
「その予定だったんだけどね、雨で一件工事案件が流れたから。早めに帰れそうなんだ。で、俺の提案に乗って貰えるのかな?」
勿論二つ返事で頷いた事は言うまでもない。
★★★★★★
急に誘われたからよ!と自分に100回程度言い訳をして、残業を中断して、駅前のデパートに走った。
ずっと迷っていたドルマンスリーブのワンピースを勢いで買う事にする。
プレセール初日に見てずっと迷っていたのだ。
どのみち着替えが必要だから、丁度良い事にする。
ついでに新作の化粧品を見に行って、スキンケアラインのサンプルを貰いつつ、下着売り場に向かった。
何だか、これから旅行にでも行く様な気分だ。
大きめの紙袋に纏めて貰った荷物を手に、待ち合わせの駅に向かう。
重たい雨も、鈍い空も少しも気にならない。
スキンケアグッズと寝巻は彼の家に置いてあるし、ここ最近はメイク直しする事が増えたので化粧品は一式持ち歩いている。
丹羽と付き合い始めてからポーチの大きさが大きくなった。
荷物は少ない方が好きなので、最低限のアイテムしか入れていなかったはずなのに、いつからか、ブレストパウダーとグロスだけのポーチに、マスカラやアイシャドウ、チークが増えて、今ではパレットタイプの物を持ち歩くようになった。
こういうのを”変化”と言うのだろう。
子供から大人になる過程で、自分でも驚く位、感情や感覚が変わっていった。
それと同じような状況に今の自分が居る事が未だに不思議でならない。
大人になれば、それ以上は何も変わらないと思っていたのに。
電車を乗り継いで、丹羽の住む駅で降りる。
改札を抜けると、見慣れた背中を見つけた。
自然と足早になる。
これはもう習い性のようなものだ。
「岳明」
声をかけると、彼が振り向いて亜季を見止めて穏やかに微笑んだ。
「お疲れ。えらく大荷物だね」
「だって、急に呼ぶから!!女子は必要な荷物が色々あんのよ」
少しでも恋人から可愛いと思われたい欲目を理解して欲しいような、知らずにおいて欲しいような。
不貞腐れた亜季の髪を指先で撫でて、苦笑いした丹羽が、彼女の肩から紙袋を外した。
「それはごめん」
「あ、大丈夫持てるよ。軽いし」
洋服一着と下着に化粧品が少し。
自分の今日のカバンよりも恐らく軽い。
けれど、丹羽は差し出した亜季の手を握って、そのままマンションに向かうべく地下街に繋がるエスカレーターへと歩きはじめる。
「軽いから、とかじゃないでしょ。普通、彼女に荷物持たせないよ」
「え、そう!?」
自分で持てる荷物は自分で持つものだと思って来た。
というか、自分の荷物を誰かに預ける様な生活は、とんと送った事が無い。
”自分で”という考えが間違っていたとは思わない。
だけど・・・
彼女の答えに、丹羽が視線を下げて可笑しそうな顔をする。
「亜季は、自分を預けるタイプじゃないからね」
地下街は雨のせいか人もまばらで、19時閉店に向けて、どの店も片づけに忙しい。
足早に2人を抜き去っていくサラリーマンやOLの背中から、家路を急ぐ様が伺える。
多分、丹羽が家で待っているとなったら、きっと自分も同じように早足になるんだろう。
回りの女子と比べても、亜季は早足な方だ。
目的が無い場所をブラブラする事は殆ど無いし、ウィンドウショッピングも決まった店にしか行かない。
効率が良い事が好きな自分が、時間を気にせずのんびり歩ける場所は、多分彼の隣りだけなのだ。
「預け・・・ないわね」
これまでの自分を振り返ってそう断言した亜季の指を丹羽がそっとなぞった。
「自立心が強いとこも好きだけどね。離れてる時間があっても、心配せずにいられるし」
それは”彼女”として優秀という事だろうか?
上目遣いに思案顔を向けて来た亜季に向かって、丹羽が笑う。
「何、不満?」
「不満・・・はないけど。こういう自分は嫌いじゃないし、1人の時間も必要だって思ってるし」
「けど?」
「けど、そういう強気な大人女子って、男の人から見たらどうなのかなって・・・」
「俺は、そういう亜季だから安心して付き合える。他所で誰かに寄りかかる人じゃないから」
「そうでもないかもよ!?」
悔しくて言い返した亜季に向かって、再び丹羽が断言する。
「そうだよ」
「・・・」
黙り込んだ亜季が絡めた指をギュッと握った。
ここでむきになっても無駄だという事はこれまでの経験で嫌と言うほど分かっている。
力の差は歴然だ。
「もう少し預けて欲しいな、とは思うけど。この距離でそれをいうのはおこがましい気もするし」
お互い自分の仕事があって、生活リズムがある。
時間を合わせる事に苦労するのは、社会人の恋愛なら必須。
それを承知で、認め合って譲り合ってこうしている。
丹羽の言葉に亜季が瞬きをひとつして呟いた。
「距離って・・・でも、結構頑張って会ってると思うだけど」
お互い抱えた仕事をやりこめつつのスケジュール調整は決して楽では無い筈だから。
丹羽は笑って、それから頷いた。
いかにも亜季らしい答えだよね、と付け加える。
恋愛は相互努力が無くては続かないと知っている、大人の考え方。
今の状況が最善と信じて疑わない亜季に、丹羽が探るような視線を向けて、切り出した。
「頑張ってるね、確かに。けど・・・今じゃなく未来の話してみない?」
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