第69話 短い?
風呂上がり、扇風機の前でショートボブの短い髪を乾かしている亜季が、思い出したかのように襟足を撫でた。
「んー・・・」
「なに?何か悩みごと?」
夏場は、夕食を食べて、早めに入浴を済ませてから、ゆっくり飲む事のほうが多い。
風呂上がりの一杯を楽しみに、家事もさくさくこなせるからだ。
「んー・・」
「さっきも湯船でそんな顔してたけど?」
時間短縮と節約を掲げられて、断るに断れなくなった”一緒にお風呂”。
漸く慣れては来たものの、まだ落ち着かないし、気恥ずかしさの方が大きい。
亜季は、二重の意味で火照った頬を手で仰ぎつつ曖昧に頷いた。
「悩みってほどでも無いんだけど」
髪から零れてきた雫をタオルで拭きとって、ぼんやりと天井を見上げる。
明かりのある、なしで、なんであんなに恥ずかしい度が違うのか?
湯気が籠る浴室で、入浴剤も投入済み。
視界もそう良くはない筈なのに。
え、じゃあ、明かり落としてお風呂入ったら、恥ずかしくないって事?
いや、違うだろ、暗かったら暗かったでその分色々・・・
いつも以上に岳明の指先を意識してしまう。
毛先を撫でた指が項や首筋を辿って、ゆっくり鎖骨に下りてくる。
狭い浴槽で、離れる事も出来ずに、湯気と吐息が肌を擽る。
耳元で岳明が何か囁くたび、どうしようもない感覚に襲われてしまう。
亜季の反応を愉しむかのように、触れては、離れて、またすぐに触れる唇。
それは、きっとあの場所が暗闇でも同じで・・・
視覚どうこうの問題じゃない。
耳と肌が駄目になってるんだ。
うん、違う、明かりじゃない!
「そっか・・・距離か!」
急に納得したように頷いた亜季の前に、岳明がプルタブを開けた缶ビールを差し出した。
「何の距離?」
しゃがみ込んできた夫を横目に見て、亜季が即座に視線を扇風機に戻した。
送風にしていた風力を中にする。
「なんでもなーい」
亜季の声が反響して返ってきた。
岳明がバスタオル越しに髪をかき混ぜる。
「逆上せる程長湯したかな?」
一向に収まらない頬の火照りに気づいたらしい。
「お、お湯の温度高かったからじゃない?」
「いつも通りだけど」
「・・・あ、そうだ!あのね、昨日相良に買って貰ったピンがあって・・・あ」
そこまで言って、亜季がしまったという顔をした。
結婚した以上時効だとは思うが、相良直純は、亜季の長年の片思いの相手でもある。
岳明はその経緯を知っているので、隠す必要もないのだが、何となく躊躇われた。
「そこで明らかに地雷踏んだって顔しない」
「うん、そーよね」
「別に気にしてないよ。だから、飲み会の事も何も言わないでしょ、俺」
「仰る通りで」
どこまでもオトナな対応の夫に感謝しつつ、亜季はカバンに入れっぱなしだった小さな紙袋を取り出した。
「これなんだけど・・・佳織も直純の奥さんも髪長いのよ。んで、あたしひとり短いから、こっちにしたんだ・・・」
「へー・・・亜季、自分で選んだの?」
「うん、色んなデザインあったんだけど、これなら使いやすいかなって・・・ちょっと前、奥さんに纏わりついてた害虫駆除したお礼でね」
「・・・それなら許す」
「え、ちょっと待って、許す、許さないのライン引きが分かんないんだけど」
頷いた夫を見つめ返して亜季が目を白黒させる。
「別の男が選んだものなら、あんまりつけて欲しくはないけど。亜季が自分で選んだならいいよ。シンプルなデザインだし・・・うん、似合ってる」
亜季の手からピンを取り上げた岳明が、半渇きの亜季の髪に留めた。
夫の複雑な嫉妬心は、理解に苦しむ点があるが、こうして機嫌が良いなら問題なしだ。
髪を留めるという感覚は無かったが、こういう小さいピンがあるならいくつか欲しいなと思う。
シルバーのビーズで幾何学模様が刺繍されたピンを押さえて、亜季が笑った。
「ほんとに?」
「うん、こういうのも悪くない。ピアスもいいけど・・・なんか、髪に触りたくなるな」
「髪、短い?長いほうがいい?」
「どっちでもいいよ。亜季が気に入ってる亜季が、俺は好き」
さらりと答えて、岳明が缶ビールを口に運ぶ。
「・・・あたしも飲む」
「いいけど、2本目はナシで」
「え?何で、まだ早いし」
「昨夜酔って帰ってきた人が何言ってるの?」
「家には辿り着いたでしょ」
「帰れないとか論外だろ」
「そうですけどー」
不貞腐れた亜季の頬を突いて、岳明が笑う。
「それと、さっきの続きしない、とか有り得ないから。そのつもりで、亜季が逆上せる前に上がったんだし」
亜季が慌てたように丹羽から視線を逸らした。
どうやってもこの夫には勝てないらしい。
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