第62話 新婚生活

「亜季さん、新婚生活はどうですか?」


ランチタイムの話題を振られて、亜季は口に運ぼうとしていたパスタの巻き付いたフォークを思わず落としそうになった。


「っ!どうって普通よ!至って普通」


「そーやって慌てるとこがなんかあーやしい。どーせ毎日べったべたいっちゃいちゃしてんでしょ」


グラタンを掬いながら同僚で親友の佳織が的確に指摘する。


亜季は途端に顔を赤くして首を振った。


「何よ、べたべたって!それはあんたのとこでしょうがこのバカップル夫婦」


「ちょ、バカップルってやめなさいよね!冗談じゃないわよ!」


即座に佳織が切り返してくる。


実際、バカップル夫婦というよりは妻を愛しすぎている夫馬鹿というほうが正しい。


樋口は、結婚してからこちらこれまでの片思いの鬱憤を晴らすかのように始終佳織に構いたがる。


四六時中傍にいて欲しいというのが彼の本音だが、それは到底無理な話だ。


佳織は会社員だし自分の仕事もある。


同じ職場で勤務する以上それは樋口も承知の筈なのに、何かと理由を付けては佳織の顔を見に来る。


おかげで佳織の後輩達からは、新婚夫婦と言ってはやされるし、同じフロアの同僚たちからも生ぬるい目で見られるし迷惑な事この上ない。


「あたしと相良がどんだけ惚気話聞かされてると思ってんのよ。しかも、相良ってば平気で自分の惚気話も加えてくるし、ほんっと迷惑なんですけど」


「そ、それはー・・・と、とにかく、こっちの話はいいのよ!あんたの話でしょ亜季!」


「あたしは、話す事なんてないですし」


「嘘ばっかり!」


「嘘じゃないっての。だって向こうも新婚旅行からこっちずっと仕事立て込んでて・・・」


丹羽のハードスケジュールは亜季の承知の上だし、新婚旅行のしわ寄せが来ることも予め覚悟していた。


から、すれ違いの生活に別に不満は無い。


呟いた亜季が、ふいに口籠る。


「なに、そんな忙しいの?」


佳織が心配そうな顔で尋ねてきた。


亜季の後輩である庄野も同じ様な顔をする。


「え、ああ、うん・・・」


曖昧に返しながら亜季は思い出したようにパスタを口に運んだ。


忙しい反動で、時間が空いた時の丹羽のべた甘ぶりが半端ない事なんてここで言えるわけがない。


昨夜の余韻に浸りそうになる頭を必死に仕事モードに切り替えて亜季は微笑んだ。


「大丈夫よ」


納期が迫ると徹夜作業もあるときいていたけれど、実際に丹羽が二日連続で帰らなかった時には焦った。


着替えはロッカーに置いてあるから心配しないで、と事前に言われていたけれど、どういうスタンスで居ていいのか迷う。


何か差し入れするべきか確認したいけれど、忙しい最中連絡して作業の手を止めてしまうのも躊躇われて、悩んだ挙句、電話はやめる事にして、スマホのアプリで”差し入れしようか?”と尋ねるに留めた。


けれど、結局”ありがとう。帰りたくなるから来なくていいよ”と断りの連絡が来て、予想していたもののやっぱりどこか淋しかった。


もうちょっと若ければ何も聞かずに会いに行ったと思う。


でも、後先考える年になると、夫婦間でも思い切った行動に出るのって難しい。


逆に彼の負担を増やすのでは?と疑心暗鬼に駆られてしまうからだ。


無機質な文字を目で追って溜息を吐いたら、届いた新しいメッセージ。


”帰ったら、好きなだけ甘えさせてあげるよ”


こういう時でも丹羽は妻への気遣いを忘れない。


その言葉通り、翌日は20時過ぎには帰宅した丹羽の開口一番のセリフは


「さて奥さん。俺にどうやって甘やかされたい?」


だった。


「そ、そーゆうのはいいからお風呂入って!もうちょっとでご飯出来るし」


「炊き込みご飯の匂いがするけど?」


「食べたいかなと思って」


鼻を効かせた丹羽に向かって亜季が視線を揺らしながら答えた。


亜季が作る料理の中で一番の好物。


丹羽が目を細めて柔らかく微笑む。


それから僅かに屈んで亜季の唇を軽く啄んだ。


「んっ・・・ん」


ただいまのキスがすぐに深くなって唇の隙間に舌先が捻じ込まれる。


亜季の顎を引き寄せた指を後ろ頭に回して、丹羽がじれったい位に優しく短い髪を梳いた。


「後は何作る予定?」


「お味噌汁作ったらおしまい。もう殆ど出来てるから」


「なら丁度いい。亜季、背中洗って?」


「・・・い、いいけど・・・」


「お返しに亜季の髪洗ってあげるよ」


「嬉しいけど、やだ」


「折角帰って来たのに、好きにさせてくれないの?」


やんわりと問われて亜季が答えに迷った隙に、丹羽の手がエプロンを解いてしまう。


「迷ってるなら連れてくよ」


「え、あ、ちょっと」


困惑気味の亜季に丹羽が満面の笑みで言った。


「言いたい事は、湯船でゆっくり聞くよ」

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