第90話 浴衣と着付けとあなたの手
「えーっと・・・次に結んだ帯を縦にして・・・締めて・・・亜季、頑張って踏ん張って」
丹羽が宣言してから、手にしていた帯をぎゅっと縛る。
一気に背筋が伸びて、肋骨がぎゅっと萎んだように感じた。
「え?・・・っん・・・ちょっと・・苦しい」
「え、きつい?ここでちゃんと締めとかないと、帯が緩む原因になるみたいなんだけど・・」
「いいです・・・頑張るわよ・・・言い出したのあたしだし」
「そこで拗ねなくてもいいだろ?」
拗ねたわけでは無い。
事実を述べただけだ。
亜季は即刻反論すべく、真正面で長い帯と格闘している夫に向かって恨めし気な視線を向けた。
本当の所、亜季に怒る権利なんて無い。
週末に開催される花火大会には、浴衣で参戦したいと言い出したのは亜季で、着付も自分ですると言い切ったのも亜季だ。
そして、ぶっつけ本番で挑もうとして、動画再生したものの、途中で迷子になった亜季に、助け船を出して、帯結びを引き受けたのが丹羽だった。
左右が逆の鏡になる動画を見ながら、迷うことなくテキパキと帯を結んでいく夫の姿に、女性としての自信がどんどん失われていく。
嗜めるように笑った丹羽は、いつも通りの穏やかな表情のままで、亜季に顔を近づけた。
「・・・っん・・・グロス・・っ」
爽やかな微笑みはそのままなのに、キスは一度で終わらない。
丹羽が帯を手にしたままなので、これ以上下がる事が出来ない代わりに、亜季は顔を俯かせた。
先にメイクをしてから着付を始めたのだ。
万一にも浴衣を汚しては困るから。
けれど、亜季の抵抗をものともせず、覗き込んで視線を合わせた丹羽が、もう一度掬うように下から唇を合わせた。
うっすらと目を開けた瞳の先で、濡れたように光る丹羽の唇が亜季を誘う。
艶感重視で選んだ重ね付け用のグロスは、丹羽の唇を綺麗に彩っていた。
まるでグロスを塗り合うように上手に重ねられた事に気付いて、羞恥心で頬が熱くなる。
「いいよ・・・舐める」
吐息で囁いて、丹羽がもう一度キスをした。
「っは・・・ん・・・っ」
宣言通り、亜季の上唇を丹羽の舌先がつるりとなぞる。
柔らかくて暖かい独特の感触に、背筋がぶるりと震える。
堪えきれずに漏らした声に応える様に、丹羽が舌を絡めて来た。
亜季の機嫌を宥めるように優しく歯列をなぞって、上顎を擽る。
堪らずに顔を上げると、今度は覆いかぶさるように角度を変えて唇が重なった。
「ん・・・っん・・」
帯から手を離した丹羽が、亜季の背中に腕を回す。
逞しい腕が腰に下りて、そのまま引き寄せられた。
最後は優しく舌先を吸って離れると、丹羽がこつんと額を合わせた。
何とも言えない色気を含んだ眼差しに射止められて、身動きが取れない。
丹羽がゆっくりと目を細めた。
「今の顔は最高に色っぽかった」
「・・な・・なに言って・・」
「浴衣で拗ねるのって、なんか堪らなくなる・・・
なんでだろう・・・いつも見えてる項が見えないせいかな?
一瞬、どうしてやろうかと思ったよ」
優しく微笑んで、とんでもない事実を告げた丹羽が、亜季が唇を戦慄かせる。
普段から、首回りがすっきしりたVネックやボートネックのニットが多い亜季は、髪が短い事もあって、項が隠れている事は殆どない。
逆に、今日は浴衣の襟で、それが隠れているせいで、丹羽の中にあるよからぬスイッチを押してしまったようだ。
亜季の読みが大外れで、タイムスケジュールが見事に押したせいもあり、すでに外は真っ暗になっている。
本当なら、この時間には高台の公園に居るはずだったのだ。
けれど、着付の主導権を丹羽が握っている以上、どうしようもない。
多少の途中中断はやむをえない。
それよりもこのまま放置される方が困る。
ふたりの間に漂う、いつもより濃密な甘い雰囲気。
ともすれば、このまま帯を解きかねない丹羽の手元。
でも、この浴衣は今年新調したものだ。
年に一度の花火大会の為に。
亜季は、丹羽に向かって指先を伸ばした。
目の前でツヤツヤと光る唇は、ちょっと刺激が強すぎる。
気分を変えようと、グロスをふき取ろうとした亜季の指先を、丹羽の手が捕まえた。
握った指の腹にキスをして、その手を下にさげてしまう。
「まだ、駄目。
亜季の唇に残ってるから、拭いてくれるなら、後にして?」
「・・・え・・・」
言われた言葉の意味が分からず、ぼんやりとした返答になった。
今、指先で残ったグロスを拭い取っても、グロスの残った亜季の唇に、これからキスをするつもりだから、無駄だよ、と丹羽は言ったのだ。
頭の中で正しい文章が並んだ瞬間、亜季が明らかに狼狽えた。
意図を理解した妻の顔をまじかで見つめて、丹羽がもう一度腰を抱き寄せる。
無理、とか、もう駄目、とか言わせる前に先に唇を奪った。
完全に油断していた亜季の唇を割って、やすやすと丹羽が舌先を送り込む。
「んん・・・っ」
くぐもった声を漏らした亜季の頬を撫でて、さっき結んだ帯の片側を、丹羽の指が掴んだ。
僅かに力を加えて、固く結ばれた帯を緩める。
胸下を圧迫していた力が弱まって、亜季がほうっと、息を吐いた。
苦しそうに逃げ惑う舌先を擽って、頬を裏側を舐めた丹羽が、すっかり潤んだ亜季の両目を覗き込む。
「ちゃんと呼吸して・・・帯緩めたから、苦しくないだろ?
酸欠に・・ならないように」
緩んだ帯のおかげで余裕が出来た襟元から指先を忍び入れて、項を撫でる丹羽の慣れた仕草が憎らしい。
存分に呼吸はしたいけれど、そうさせてくれないのは目の前の夫だ。
鼻から息を吸っても、上がりっぱなしの心拍と、火傷しそうな舌先のせいで、まともに呼吸なんて出来ない。
丹羽の優しい気遣いも、亜季の身体を火照らせるだけだ。
キスが解けた瞬間に、大きく肩で息を吐く。
カーテンを引いていない、窓の向こうが僅かに明るくなった。
花火大会が始まったらしい。
ビルの間からわずかに見える花火に視線を向けながら、丹羽が僅かに顔を顰める。
「しまった・・・今からじゃ車出しても間に合わないな。
ごめん、花火には間に合わせるつもりだったんだけど」
「そ・・れは・・・いいけど・・・最初に出鼻くじいたのあたしだから・・」
認めざるを得ない失態を犯したのは間違いなく亜季だ。
こんな事になるのなら、もう1時間早く始めれば良かった。
「それに乗っかって、調子に乗ったのは俺だ。
まあ・・・それも原因は亜季だけど・・・
浴衣の帯結べないとか言い出すし、誘うみたいな視線送って来るし・・・
今日は・・・なんか、いつもより女っぽい匂いがするし。
これだけ条件が揃ってて、何も無いとかありえないだろ?
俺たち夫婦だよ?
今日は休日で、明日も休みで、家には二人きり」
こうなるのもしょうがない、と真顔で言い切って、丹羽がもう一度亜季の唇にキスをする。
「っん・・・責任転嫁ぁ・・・っ」
言い返した矢先に、もう一度舌を絡め取られた。
ざらついた舌の表面をなぞられて、腰が砕けそうになる。
亜季の反応に気を良くした丹羽が、一歩踏み込んで、亜季の身体に体重をかけた。
慌てた亜季が丹羽のボタンダウンシャツの胸元にすがるように手をつく。
頬を撫でていた手が、背中に回って支えを強くした。
じりじりと追いつめられていく感覚。
爪先からゆっくりと力が抜けていく。
丹念に亜季の口内を探る丹羽の舌先は、情熱的に亜季を求めて来る。
「っぁ・・・は・・っ」
固く閉じていた瞼をそっと開くと、目の前で丹羽が微笑んだ。
その肩口の後ろ、遠くに立った今打ち上げられた錦冠が見える。
大きく花開く円形の花火も夏らしいが、ゆっくりと流れる錦冠も日本の晩夏のイメージだ。
まだ亜季の気持ちが花火に傾いていると悟った丹羽が、亜季の背中を支えたままで尋ねた。
「ベランダ出て見てみる?」
「え・・・でも・・・」
結びかけの帯は、床にまで伸びていて、これをズルズル引きずって動くのは億劫だ。
だらしがないし、人目がないとはいえ抵抗がある。
持ち上げた帯を亜季の手から取り上げて、丹羽が手早く折りたたんだ。
迷うことなく残しておいた帯を巻き付けて、きゅっと結ぶ。
流れるような仕草であっという間に綺麗な文庫結びが出来上がった。
「なんで・・」
「さっき、亜季が動画見てる時に一緒に流れ見てたから。
そう難しくもないよ、余計な事さえしなければ、すぐに結べる」
からかうように、色を含んだ笑みを向けられて、亜季が顔を背ける。
だから、試すようにこっちを見ないで。
とっくに花火の事なんて、頭から消え去っていた。
何でも器用にこなしてしまう丹羽が、結び付けた帯をぐるりと回して満足げに頷いた。
「俺しか見てないし、こんなもんでいいだろ。
ほらおいで、花火見てる間は、ちゃんと自重するから、安心していいよ」
「っ・・!」
「やり過ぎた事は、自覚してる。ごめんな」
戸惑う亜季の手を取って、ベランダへと足を進める。
窓を開けると、生ぬるい風が肌を撫でた。
けれど、それすら心地よく感じる位、亜季の身体は火照っていた。
指を繋いだままで、丹羽が困り顔の亜季を振り返る。
「こら、そういう顔するなって・・・亜季も、我慢して」
窘めるように囁いた丹羽の声がとびきり甘くて、亜季は泣きそうに俯くしかなった。
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