第87話 喧嘩にもならない
「ただいまぁ!」
飲み会で遅くなると話していた亜季が戻ってきたのは10時半前だった。
時計を確かめた丹羽が、おかえりを告げる。
「傘ちゃんと持って出た?」
夫からの問いかけに、亜季が表情を曇らせた。
「ええーっと、それがぁ」
「もしかして、忘れて行ったのか?」
「晴雨兼用日傘は持ってたのよ!」
夕方から夜にかけて強く降るでしょう、というお天気アナウンサーの言葉をはいはーい、と聞き流していたことを今さら後悔しても遅い。
威張るところでもないが、晴雨兼用でも、一応傘は傘。
酸性雨よりも紫外線が気になるお年頃のなのだ。
リビングから顔を覗かせた丹羽が、亜季の姿を見とめて顔を顰めた。
「それだけ盛大に濡れる前に、なんで電話してこないかなぁ。
待ってて、タオル取って来るから」
「ごめん~。お風呂入ってるかなと思って」
「どうせなら、もうちょっと長風呂しとけばよかったよ」
苦笑交じりでタオルを手に戻ってきた丹羽が、亜季の頭にバスタオルを被せた。
「そうしたら、ひさびさに一緒に長風呂出来たのに」
「・・それは遠慮するわ」
肩から下げていたバッグを取り上げた丹羽が、亜季の上着のボタンに手をかけた。
「遠慮するところじゃないだろ・・・それにしてもよく濡れたね」
「雨が横殴りで、あんまり傘の意味が無かったのよ・・だ、だいじょうぶだから、自分でする」
あっさりボタンを外した丹羽が、湿ったジャケットを亜季の肩から引き下ろした。
「そこも遠慮するところじゃないよ」
しれっと言い返した夫のあざやかな手腕で、あっという間に上着が脱がされてしまった。
「・・・手際・・よすぎない?」
髪から零れた雫をタオルで拭いながら、亜季が胡乱な視線を送る。
嬉々として妻の洋服を脱がせる夫。
いや、そりゃあまあ、仮にも2人は夫婦だし・・・
他の女性の洋服を脱がせてやる訳でもないから、問題はない。
別に、初めてされたわけでもないから、今更照れる必要もないと思うだけど・・・
でも、なんか物凄く恥ずかしい。
いつになく羞恥心が湧き上がってくる。
不満そうに唇を尖らせた亜季に、丹羽が余裕の表情で微笑みかける。
「そりゃあ、慣れてるからね・・」
「なっ・・慣れてるとか言わないでっ」
「・・・赤くなってる・・・今更照れるとこでもないだろ?」
「改めて言われると照れるのよ!」
ムキになって言い返す自分もどうかと思うが、恥ずかしいものは恥ずかしい。
こればっかりはどうしようもない。
「早く脱がないと、身体冷やすから」
亜季の上着を脱がせた正当な理由を教えられて、亜季は唇を引き結ぶ。
「わ・・・かってるわよ」
頭では分かってる。
分かってるけど、今はまともに丹羽の顔を見られない。
何にこんなに動揺しているのかもわからない。
「なに・・・どうしたの・・・」
亜季の様子に気づいた丹羽が、濡れた上着を腕に掛けながら窺う様な視線を向けた。
脱いだスーツをそのままにするような事を、絶対にしないのが彼らしい。
家に戻ると、バタバタと靴を脱いで先に部屋に入った亜季のパンプスを揃えるのはもう丹羽の日課になっていた。
「べつに・・」
彼がつぶさに自分を見ていると思うだけで、どんどん頬が熱くなる。
視線を泳がせるのが悔しくて、丹羽の手にしているジャケットをひたすら見つめる。
洋服ひとつ扱うにしても、丹羽の手つきは優しい。
決してぞんざいに触れるような事はしない。
それは、亜季に対する時も同じだった。
亜季と、廊下をぐるりと見回した丹羽が、何かに気づいたように声を上げる。
「ああ・・そっか」
「なに?」
「・・・いつもは部屋が暗いから」
「・・・ぇ?」
「だから、動揺してるのか」
「っ!!!」
自分でも気づかなかった原因を綺麗に見抜いた丹羽が、持つものが無くなった亜季の指先を捕まえる。
「やっぱり・・もう冷えて来てる」
温度を確かめる様に唇で触れて、丹羽が亜季の顔を見下ろした。
「・・・それとも、明かりを落とした部屋でも、そんな顔してるの?」
「し、知らないわよ!」
自分で自分の顔なんて見られないし、見たくもない。
慌てて丹羽の手を振り払う。
とくに気にした素振りも見せずに、丹羽が亜季の身体を抱き寄せた。
バスタオルごしに頬を寄せて、溜息を吐く。
「俺が気づいてないだけかぁ」
「だから知らないって・・」
「・・・思ってたより余裕ないんだよ、俺も」
突然耳元で聞こえた自嘲めいた告白。
丹羽らしくない、弱気な声に、亜季も反論の声を止めた。
余裕がないのは、亜季のほうだ。
丹羽の言葉ひとつで、オロオロと狼狽えて、安心したり、不安になったり。
時には恥ずかしがったり、泣きそうになったり。
こんなに主導権を握れない恋は初めてで、掌の上で転がされるしかない自分に、戸惑ってばかりいる。
これまで亜季が選んできた恋人は、同じ場所に立っていると実感できる相手ばかりだった。
だから、恋愛ならではの少しずるい駆け引きも、大人だから飲み込める我儘も、きちんと自分でコントロール出来た。
自分の気持ちが分からなくなって、言葉に詰まったり。
ましてや原因不明の動揺に襲われる事なんて無かったのだ。
抱き締められた腕の中で、亜季はほっと息を吐いた。
すぐ傍に丹羽の心音を感じる。
顔が見えないだけで、見られていないと確信出来ただけで、ずいぶん動悸が収まった。
亜季の表情の隅々まで、つぶさに見つめようとする丹羽の視線が落ち着かない気分にさせるのだ。
普段、明かりが落とされた部屋で抱き合う時は、それを意識せずに済む。
暗がりの中で、吐息を絡めて手探りしあうのは心地よい。
恥ずかしさよりも充足感が勝るから。
マンションの玄関で、室内灯の明かりの元で、丹羽が亜季の洋服を脱がせたのは初めてだった。
だから、物凄く動揺したのだ。
いつも自分がどんな風にしているのか全く分からなくなってしまった。
状況が違う!とどこか冷静な自分のツッコミが聞こえてきたが、間近に迫った丹羽の長い指先が、水気を帯びて硬くなったジャケットのボタンを外す様子は、どうしようもなく亜季の心を揺さぶった。
丹羽がどんなつもりであったとしても。
ぬくもりを分け与える様に背中を撫でる掌は、ただただ穏やかで心地よい。
ひとりみっともなく動揺して、焦ってばかりいた自分と同じように、丹羽も少なからず同様しているらしい事が察せられて、少し気が楽になった。
「どんな亜季も、全部、落とさず拾ってきたつもりだったんだけど」
「・・・見て欲しくない時もあるから・・それでいいと思うわ」
とくに今なんてその最たるものだ。
ちょうど、バスタオルが視界を遮ってくれているので、安心して丹羽の肩に頭を預けられる。
普段勝気な性格で押し通している分、こうして甘えるのは苦手だし、恥ずかしい。
そのくせ、さっきみたいに些細な出来事で慌てふためくのだから、やっぱりどうしようもなく面倒な女なのだ。
強がりで意地っ張りで、全然素直じゃなくて。
可愛げ何てとうの昔に投げ捨ててしまったような自分だ。
丹羽が必死になって拾い上げるほどの何かを、持っているとは到底思えない。
亜季の心の声を読み取ったかのように、丹羽が亜季の頭からバスタオルを外した。
少し腕の力を緩めて、濡れて乱れた髪に指を絡める。
「今ちょっとホッとしてただろ」
「・・・してないけど」
「亜季は、自分の弱いところを見られるのを極端に嫌うから」
「そんなことない!」
「そう?」
「そうよ!」
ここで頷く事なんて、絶対に出来ない。
意地でも。
逸らすもんかと丹羽の双眸を見上げて言い切る。
”大丈夫?”
そう尋ねられる前に、”平気だから”と笑うようになったのはいつからだろう。
後輩が増えて、立場も変わって、自分の求められるポジションが理解できるようになった頃には、そんな自分がすっかり板についていた。
亜季が安心させるように微笑めば、それだけで周りの人間は安心する。
亜季が大丈夫だというのだから、何とかなるだろう、そんな風に。
頼られるのは嬉しいし、必要とされていると、安心も出来る。
でも、その分出せない本音は内側にどんどん溜まっていく。
だから、弱気な、不安な、らしくない自分は、誰にも見られたくないのだ。
とくに、一番大好きな相手には、自信を持って見せられる部分だけを見ていて欲しい。
でも、丹羽はそれを許してはくれない。
「亜季を隙だらけに出来るのは、俺だけなんだから」
囁いた丹羽が、亜季の額にキスを落とす。
まるでささくれだった心を宥めるかのような優しいキス。
「・・・だから・・なによ」
「もっと無防備になってよ。俺は、普段から、亜季のそういう顔がもっと見たい」
物凄く難しい提案をされて、瞬時に眉根が寄る。
その瞬間に、丹羽が亜季の唇を奪った。
「・・・っ!」
軽く触れた唇の感触に、亜季が目をしばたたかせる。
困惑気味の妻の頬をなぞって、丹羽が告げた。
「そう、そういう表情だよ。つぎに俺に何されるんだろうって・・・不安と、緊張が混ざった顔。もっと俺に見せて」
吐息と共に二度目のキスが落ちてきて、亜季は目を閉じて受け入れるしかなかった。
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