第126話 ライナスの毛布

”執着”、”依存”


これまで生きて来た人生において、一番自分に縁のなかった言葉たち。


悲しいかな、恋愛よりも仕事に重きを置いてきた亜季にとって、追いかけて叶った数少ない甘い恋は、仕事という大人の事情によって綺麗に諦めがつく位の負荷しか無かった。


重たくて、苦しくて、だけどどうしても手放せない。


そんな気持ちは、一生他人事で生きていくのだと、そう、思っていた。


「こっちも好きだと思うよ、試してみて」


穏やかに笑った丹羽が、日本酒の小瓶の蓋を開けて銘柄を亜季に見せる。


地方出張の夫が、毎回チョイスしてくる地酒は亜季の楽しみの一つでもある。


丹羽が選ぶのはどれも、亜季好みのまろやかですっきりとした飲み口のものばかり。


時々、丹羽の好きなぴりっとした辛口のものもあって、違いを楽しめるのもまた良い。


酒豪と胸を張るつもりは無いけれど、甘ったるいカクテルで酔っぱらう若手女子とは一線を画していると自負している。


酒を嗜むのも社会人の権利と義務。


折角丈夫な肝機能を持って生まれたのだから、フル活用していきたいところだ。


「スパークリング日本酒・・・」


ワインじゃなくて・・・?と首を傾げる亜季に、楽しそうに瓶を傾けて、シュワシュワと泡の浮かぶ日本酒をグラスに注ぎながら丹羽が楽しそうに目を細めた。


「ジンジャーエールみたいな口当たりらしくて、違和感なく飲めるよ。向こうで接待してくれた取引先の人が、ワインの代わりに飲んでるって話してたから。その人に勧められた、こっちの大吟醸と、軽めのこっちも、美味しいと思う」


ローテーブルにずらりと並べられた良く冷えた日本酒の瓶は、なるほど女性受けの良さそうな上品で洒落たデザインだ。


中高年がこぞって飲みたがる辛口一献の男らしい酒瓶も素敵だけれど、こういう華奢で繊細な瓶の方が女性は挑戦しやすい。


買って来たデリのお惣菜を手際よく盛り付けて、定番のナッツ類とチーズ、漬物なんかも用意して、夕方から始まった晩酌は、週末ならではの夫婦憩いのひと時だ。


離れていた平日、それぞれの会社であった出来事を報告しあって、丹羽の出張先での話なんかも聞きながら、適当に付けたテレビをぼんやり眺めつつ穏やかに呑む。


お洒落なレストランで気取ったディナーも素敵だけれど、ゆるい部屋着で、暮れていく空を眺めながら、二人で時間を気にせず過ごす方が亜季は楽だし、愉しい。


帰りの心配をしなくて良い事が大きな要因で、化粧を落とさなくても良い事がその次の要因、最悪眠ってしまっても全く問題ない事が、最大の要因である。


勿論、大好きな人と、素の自分で好きなお酒を飲めるというのが大前提で、だが。


だから、初めは丹羽が亜季のために買ってきてくれた沢山の酒瓶を前に、テンションは上がりっぱなしだった。


見た目も文句なし、こういうのをお洒落に並べて写真に撮って、ネットに上げるのだろう、イマドキ女子ならば。


SNSの類が苦手な亜季は、自分のプライベートを世間に発信する度胸が無いので、自分のギャラリーに保存するのが関の山だが、それでも嬉しいものは嬉しい。


次に佳織とランチをしたら、日本酒の感想と共に、お勧めしてみようと、スマホを片手に日本酒をカメラに納めて行った。


けれど、話の途中で気付いたのである。


恐らく丹羽の接待相手が女性であると。


仕事をしている上で、企業の担当者が女性である事はままある。


まして丹羽の職種は、ソフトウェア販売の営業マンだ。


依頼先の企業は、大小さまざま、業種も多様。


女性向けのショップに出向く事だって少なく無い。


だから、気にする必要なんてないし、この日本酒だって、丹羽が亜季の為にその人に尋ねてくれたのだろうし、こうして話題に出す位だから、やましい事なんてある筈もない。


というか、真面目に働いている夫の不貞を疑うなんて、妻としては落第だ。


だけど、丹羽は普通の女性が見たら、まず間違いなくうっとりするレベルの容姿をしていて、その上愛想も良くて仕事も出来る。


亜季が仕事で初めて顔を合わせた時には、後輩の庄野が”イケメン!めっちゃイケメンですよ!!眼福過ぎます!”と大騒ぎしたものだ。


亜季は残念ながら、その前にあまりよろしくない初対面を済ませていたので、よろしくない心象をそのまま抱いていて、穏やかな笑顔すら胡散臭いと脳内変換していたので、丹羽の容姿云々に頓着する余裕は無かった。


けれど、結婚した今も、夫婦二人で買い物に出れば、大抵スーパーですれ違う女性は皆羨ましそうな視線を向けて来るのだ。


そりゃあもちろん、優越感に浸らない訳じゃない。


誰もが羨むイケメン旦那を捕まえた自分の強運に、豊満とは言えない胸を張りたくなる。


けれど、次の主観には、別の不安が浮かぶのだ。


”なんであのイケメンに、この女!?”


訝し気な視線が飛んで来ることも珍しくない。


当然亜季だって自分の身の程は知っている。


どう頑張っても十人並みの容姿の自分が、丹羽の隣を平然と歩けているのはまさに奇跡そのものだ。


だからこそ、不安になる。


丹羽なら、もっと、いくらでも素敵な女性を選ぶことが出来たのだと。


「この日本酒教えてくれた人、美人だった?」


こんな素敵なお酒を勧めてくれる位の人だから、きっと仕事も出来るのだろう。


亜季よりずっと日本酒にも詳しいようだから、丹羽との会話も弾んだに違いない。


よりによって自分が一番コンプレックスを感じている容姿について問いかけるなんて、相当酔っているとしか思えない。


けれど、今更訂正するのもわざとらしい気がして、引き寄せた日本酒を勢いよく煽った。


シュワシュワと口の中ではしゃぐ泡が、落ち着かない今の自分と重なって複雑な気持ちになる。


「・・・そんな事訊くなんて珍しいな。気になる?」


うっすらと意地悪な笑みを浮かべた丹羽の表情は余裕そのもの。


亜季がするっと零した本音が思いのほか楽しかったらしい。


日本酒のグラスを揺らしながら思い出すように目を閉じた。


「こ・・こんな沢山のお酒知ってて、どれも美味しいし、見た目も素敵だし、完璧すぎるから、そうなのかなって、ちょっと・・」


「気になったんだ」


「酔ってるの」


「亜季は酔ってると素直になるよね」


頬杖を突いた丹羽が、グラスを手放して亜季の赤くなった頬を指の背で撫でる。


触れた関節がくすぐったくて距離を取ったら、捕まえるように開かれた掌が顎を掬った。


「うちの奥さん、俺の影響で日本酒を飲み始めまして。いま、二人で新しいものを探すのが楽しみなんです。二晩も一人にしてしまうんで、彼女が喜びそうな日本酒、教えてもらえませんか?」


「・・・」


「って、訊いたんだけど、まだ心配?」


「・・・心配・・・は、してない」


「そこで視線逸らしたら、認めたようなもんだろ・・?分かりやすくて助かるよ」


「で、その人は何て言ったの・・・?」


「まあ!うちの主人みたいなこと言うのねぇ。って笑ってたよ。ちなみに、接待相手は御年58歳の酒蔵の女主人。入り婿の年下の旦那さんから溺愛されてるらしいよ」


苦笑いと共に差し出されたパンフレットには、恰幅のよい着物姿の和風美人と、半被姿の優しそうな男性が映っていた。


一目で件のご夫婦だと察しが付く。


「こっちの日本酒は、二人が結婚式で食前酒として楽しんでもらえるようにって、紅白のラベルで売り出した商品だって。飲めば夫婦仲が深まるらしいけど、どうだろう?」


「~っ」


「俺は、もっと深めたいけど・・・?亜季は?」


「・・・い、今ので分かんなかったとか言ったら引っ叩くけど・・・いいよね?」


あからさま過ぎる嫉妬を素知らぬ顔でスルーするというなら、もう真っ向勝負に出るしかない。


さあ、どうだ!?と挑んだ亜季の目の前で、三日月のように目を細めて、丹羽が楽しそうに口角を持ち上げた。


すいと動かされた指先に、喉を擽られて甘いしびれに侵される。


後手を突いて、一時後退を計ろうとした亜季の腰に、するりと絡みつくように腕が回されたのは次の瞬間だった。


丹羽の長い腕は容易く亜季の腰を攫って、自分の方へと引き寄せてしまう。


亜季を一人の自立した女性としてきちんと尊重してくれる丹羽が、亜季を自分の持ち物のように引き寄せるのはこういう時だけだ。


執着も依存も真っ平ごめん、一番関係のない言葉。


そんな風に思っていたのに。


「引っ叩かれるのは嫌だけど、俺に爪を立ててもいいよ」


肩に凭れかかって来た丹羽の甘ったるい台詞に、切れない鎖が見えた気がした。


誘い文句と共に落とされたキスは、日本酒の名残か、シュワシュワと軽やかで、ほんの少しだけ物足りない。


いつもより酔いが回っているのだと気付きもせずに、亜季は進んで舌を絡ませる。


「・・・んっ」


角度を変えてキスを深くした丹羽が、しなやかな背中を掌で辿りながら、囁き声で告げた。


「すっかりその気みたいだ」


居てくれなきゃ困るとか、離れちゃ嫌とか、色んな気持ちが頭の中で渦巻いて、少しずつしみ出した我儘が身体を侵食していく。


どう言えばいいのか分からなくて、必死に目の前の肩に縋りついた。


安心させるように背中を叩いた掌が、今度は誘うように背骨を撫でて、怪しく腰を捕まえる。


上がっていく息遣いを、重なる吐息の熱に溺れそうになる。


呼気を交換するようなキスが繰り返されて、息継ぎも上手く出来ない。


余裕がないのは亜季だけではないのだと分かって、少しだけ安堵した。


いつだって丹羽は優しいし、亜季の扱いを間違えた事は一度もないけれど、時折こうして強引に迫ってくる。


ああそうだ、だって二日も離れてたんだから甘えたって誰も文句なんて言わない、と結論付けたら、気持ちより先に言葉が浮かぶ。


「ずっと傍に居て」


それが依存でも執着でも、愛情から派生するものならば受け入れてみせると、迷うことなく亜季は告げた。

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