第81話 甘いのは桃

「桃剥けたよー」


冷やしておいた完熟の桃をガラスの器に並べて、テーブルへ運ぶ。


風呂上がりの岳明は、ソーダ水のグラスを口に運びながら目を細めた。


「美味しそうだね」


「美味しいと思う!会社で、みんなで箱買いしたのよ。ネットで安くなってからね。おかげでフロアが桃のいい匂いで満たされてた」


「それで急いで上がったのか」


岳明はゆっくり入っていいからね、と念を押して先に出たのに、思い切り不服そうな顔をされてしまう。


亜季は、ごめんと笑ってフォークに刺した桃を岳明の口元へと運んだ。


「すぐに食べさせてあげたかったら」


「・・・その気遣いは嬉しいけど・・・」


ぱくりと桃を齧って、岳明が微笑む。


良かった、当たりの桃だったらしい。


段ボール買いだから、ハズレもあるだろうとフロアのみんなで話していたが、杞憂だったようだ。


「ちょっと物足りなかったよ、俺は」


唇を軽く啄んで、岳明が亜季を抱きしめる。


半渇きの髪は、水気が残っていて、亜季が自分の支度はそっちのけで、桃を準備していたことが伺えた。


いじらしいというか、なんというか。


料理上手でないと自覚している亜季の包丁さばきは慎重だ。


手際よく出来ないから、岳明を残して先に浴室から出たのだろう。


こそばゆい気持ちと、別の感情が湧き上がってきて、岳明は溜息を零した。


あの場は、そのまま二人でバスタイムを楽しむという選択肢もあった筈なのに。


捕まえきれなかった自分が悔しいのと、亜季の気持ちが嬉しいのとで、身動きが取れなくなる。


とりあえず今は、間を取って唇へのキスで我慢することにした。


残りの甘さはひとまず桃で補う事にする。


「物足りないって・・」


熱を帯びたキスは、ほんのり甘くて桃の味がした。


流してしまいそうになった一言の意味に気づいて、亜季が無言で赤くなる。


そりゃあ、たまには二人で入浴するものいいとは思う。


でも、入浴剤を大量投入したとはいえ、狭いバスタブの中で密着して寛げるほど羞恥心が薄れたわけではない。


結婚すると、そういうのが全然平気になった。


なんて先輩主婦社員の話も聞くけれど、亜季には当てはまらない。


多分、素肌を晒す云々よりも、あの密閉空間で見つめあったり、甘ったるい雰囲気になるのが慣れないのだ。


居心地が良くないわけじゃない。


ドキドキして、余裕がなくなって、どうしていいかわからなくなるから。


まるで、初恋真っ最中の初心な乙女のようだ。


どう頑張っても乙女にはなれないというのに。


気持ちだけ、岳明と出会ってから逆行してしまって困る。


これまでだって、きちんと他人と向き合ってきたはずなのに、恋愛だってしてきたのに。


こうやって腕の中に納められると、手も足も出せなくなるのだ。


未だに緊張する、なんて言ったら、きっと笑われるだろうけれど。


「物足りないって思ったから、そのまま言っただけだよ。


俺は・・・もうちょっと湯船に浸かってたかったかな」


「・・・ゆっくりしていいよって・・・言った・・よ?」


「そういう意味じゃないよ・・・分かってて、はぐらかしてる?」


「・・そうじゃ・・・な・・・っん」


そうじゃないけど、そうじゃないとも言い切れない。


自分からそんな事言えない。


いつだって自分の意見ははっきり言えるタイプなのに。


どうして岳明とそれが出来ないんだろう。


思わせぶりなセリフも、甘やかすだけの優しい視線も。


否定されるわけないって分かっているのに。


だからこそ、何も言えなくなる。


嫌われたくない。


もっと愛されたい。


言葉が紡げなくなるのは、怖いから。


自分の気持ちを口にして、岳明が受け入れてくれなかった悲しくなるから。


亜季の唇をキスで塞いで、岳明の指が短い亜季の髪を撫でる。


宥める様に、慰める様に。


こうして言葉に詰まる亜季にも、もう慣れた。


震える睫をそっとなぞって、吐息で笑う。


「もっと甘えればいいのに」


「・・・できな・・っ・・」


それが出来たらこんな性格になっていない。


それがあったらもうちょっと可愛げがあって、もうちょっと女らしい女性に成長していた筈だ。


こんなあたしの何処を、彼は好きだというんだろう。


自分でも見放したくなる位、女子力低いのに・・・


キスを受けながらそんな風に思ったら、岳明が囁いた。


「知ってるよ・・」


火照る頬に唇で触れて、岳明が頷く。


「そういう亜季だから・・俺たちこうなってるんじゃない」


安心させるように言って、それじゃあ、と岳明が次の提案をした。


「甘いのは桃だけか、確かめてもいいかな?」

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