第108話 きみを好きだと自覚する、その瞬間を

「書類広げてごめんねー」


グラスを揺らしながら、リビングの床に置かれたA4のコピー用紙を一瞥した丹羽は軽く首を横に振った。


部屋の時計は午後21時を過ぎている。


夕食を終えてのんびり晩酌でもと思った矢先に、亜季が持ち帰り仕事があるから、と書類を取り出した。


夫婦ともに酒を嗜むので、揃ってグラスを傾ける時間はまさに至福の時だ。


すぐに終わらせるから先に飲んでて、と気を遣った亜季がグラスにウィスキーを注いでくれたので遠慮なく始める事にした。


内容から察するに報告書ではない。


「会議資料?」


「当たりー。新人の3か月研修を下の子にサポートさせてるんだけど、説明会用の資料のチェックが出来てなくて。課長も見るから、投げていいんだけど、やっぱり一応ね」


つくづく亜季は後輩思いの良い先輩だと思う。


「亜季の面倒見良いところ、好きだよ」


「・・・っ、あ、ありがと」


書類を捲る手が止まってしまった。


彼女のこういう優しくて責任感の強い所は何度も見て来たけれど、やっぱり付き合う前の事が強く印象に残っている。




☆☆☆



「本日はお忙しいなかご足労頂いて申し訳ありません」


相変わらずの警戒心+不信感満点の他人行儀な挨拶に苦笑いを返して、会議室に案内される。


本日は顧客先に出向いての打ち合わせだ。


多方面に人気の丹羽の愛想のよい営業仕様な笑顔を見ても、頬を緩める事も無く会議室のドアを開けた亜季が、どうぞと促す。


6人掛けの可動式のテーブルとイスがあるだけの小さな部屋だ。


「資料以外に必要なものあります?」


「あとはこちらで用意してるので」


「わかりました。最初の30分で私との打ち合わせ、その後上司に向けた簡易説明会の流れで大丈夫ですか?」


機械音痴が揃っている部署との事で、亜季の上司に向けたより簡単かつ分かりやすいPC初心者向けのシステム説明会を開催するのが本日の目的だった。


「大丈夫ですよ。専門用語省いたパワポ資料も持ってきたんでそっちもチェックして貰えますか?」


「あ、助かります!」


少しだけ彼女の武装がほどけた。


表情を明るくした亜季の横顔を見るともなく眺める。


私あなた嫌いです、信用できません、と顔に書いてあるのに、時々緩むから、尚更気になる。


これまで自分を取り囲んで来た女性たちとは毛色がかなり違うから、気になるのか?


惹かれている、というよりは興味がある。


そう、ただの興味、の、はずだ。


会議室に入った亜季がドアを閉めようとした矢先に、その声は聞こえて来た。


「亜季さーん!すみません!!」


廊下に顔を出して、向こうからやって来る女性社員を確かめた亜季が、ドアノブを掴んだまま問いかける。


「んー?どしたー?ちょっとすみません、お待ちください」


椅子に座っている丹羽に軽く会釈してから廊下に出て行く。


下を育てる事も仕事の含まれるようになる年齢だ、と以前緒方と三人で飲んだ時に話していた事を思い出す。


今回のプロジェクトに関しては、窓口が全て亜季に一任されているので、日常業務に加えて確認作業や調整作業が極端に増えている筈だ。


そのうえ後輩の面倒も見るというのは、なかなかにしんどい。


逆に自分が後輩の立場だったら、ああいう先輩社員は物凄く有り難いだろうなとも思う。


丹羽に対する態度はともかく、同行して来た後輩への態度や、仕事での関りから見るに、判断能力も指示能力も管理能力もかなり優れている。


レスポンスの早さから見ても処理能力は言うまでもないだろう。


そして、彼女自身そういう自分の立場を重々理解している節があった。


じゃないと、保護者替わりで合コンになんて来るわけない。


頼まれると断れないタイプと見た。


しかも律儀な性格だから、丹羽の事を嫌いつつも子供みたいにあからさまに態度に出せない。


損な性分だな・・・


この手の人間は、周りから重宝されて頼りにもされる反面、一切を自分で抱え込む性質がある。


自分の中に限界まで不条理を溜め込んで、どうにか消化しようと躍起になって出来なくて、ボロボロになった人間をこれまでも見て来た。


”泣ける場所”はあるんだろうか・・?


浮かんだ疑問を瞬時にかき消す。


丹羽に見えている亜季のイメージと、真逆の発送だったからだ。


”泣く”よりは”怒る”ほうが彼女らしい気がする。


さして知りもしない人間に、どうしてここまであれこれと考えを巡らせてしまうのだろう?


手持無沙汰、だから・・かな。


決して近いわけでは無い距離感なのに、こんな風に思うのは、最初に見てしまったのが鎧の向こう側だったせいかもしれない。


曖昧な答えを出すと同時に、すみませんでした、と亜季が会議室に戻って来た。


打ち合わせは順調に進んだ。


亜季の上司の前の会議が押している為、説明会の時間が15分程度遅れると説明を受けたが、午後の予定は他になかったのでそのまま打ち合わせを続けることにした。


亜季が部署内で纏めた修正箇所を、一つずつ詰めながら打開案を模索していく。


渡されたチェック表の項目が半分を過ぎたあたりで、会議室のドアがノックされた。


と同時に亜季が答える前にドアが開く。


「か、会議中すみません!亜季さぁんどうしましょおおお!」


泣きそうになって飛び込んで来た女性社員の声は、さっき会議が始まる前に亜季を呼び止めた人物と同じものだった。


「どうしたの!?さっきの指示で上手く行かなかった?」


慌てて立ち上がった亜季が、後輩が持ってきた資料に即座に目を落とす。


「言われた通り、前年度の見積もりも印刷して課長印貰って経理行ったんですけど、価格訂正の説明文書の提出が必要だって言い返されたんです!締め時間15時だから、後で持っていくって粘ったんですけど、見積書と説明文の提示が無いと経理処理回せないって!」


「説明文書?そんなの一斉通達出た時に纏めて提出してるのに!分かった、私が行く。よく頑張ってくれたね、怖いのに粘ってくれたのよね。えらいえらい、ありがとうね」


「亜季さぁん」


俯いて鼻を啜る後輩を軽く抱きしめて、ぽんぽんとあやすように背中を撫でながら亜季が時計を見た。


時刻は14時50分。


決済関係の締め時間はどこの会社にもあるし、何となく流れは分かる。


他社の事なので口を挟むわけにもいかないが、穏やかな状況でない事だけは確かだ。


後輩が血相抱えて会議中の部屋に飛び込んで来る位なのだから、よほど大切な内容なのだろう。


「はいはい泣かない、大丈夫だから。何とかなるし、何とかするから」


丹羽が一度も聞いたことのない優しい声だった。


仕事向けのものとは違う、純粋に後輩を気遣う言葉だ。


付き合いの浅い丹羽にも、亜季から後輩へ向けられる信頼と親愛の情は簡単に見て取れた。


またその逆も然りだ。


亜季の言葉に、後輩が目尻を押さえながら亜季を見つめ返す。


「ほ、ほんとですかぁ」


もう相手が男だったら一瞬で恋に落ちてしまいそうなシチュエーションだ。


目を潤ませる後輩の瞳には、亜季への強い尊敬と憧れがありありと映し出されている。


これは・・・惚れるかもしれない・・・


しかも、目の前の後輩の気持ちに激しく同意してしまえる。


「うん、大丈夫。すぐ経理部行って来るから、先に戻ってくれてていいよ。何人か頼めそうなメンバーに心当たりあるから、心配しないの」


「ほんとにすみません!よろしくお願いします!」


ぺこりと頭を下げた後輩が、ここで初めて丹羽の存在に気付いた。


「あ、も、申し訳ありませ・・か、会議中なのに・・あたしっ」


「いえいえ、簡単な打ち合わせですから、気にしないでください」


鷹揚に答えて、愛想のよい笑みを浮かべた丹羽を振り向いて、亜季が申し訳なさそうな顔になった。


「お恥ずかしい所をお見せして申し訳ありません。こちらの都合で申し訳ないんですが、少しだけお時間頂けます?」


頂けないわけないですよね?と裏の声が聞こえ来てそうな言い回しだった。


「勿論ですよ、お気になさらず」


「ほんっとにすみません!すぐに戻るので!」


頭を下げた亜季が、後輩を連れて会議室から出て行く。


すぐに聞こえて来た足音は小走りどころではない、全力疾走そのものだった。


一人残された会議室で、頬杖を突いて彼女が出て行ったドアを眺める。


きっと今頃全力で後輩の為に戦っているんだろう。


・・・ああそうか、カッコイイ女だったんだ。


彼女が自分に向ける視線は、現在のところどう好意的に捉えても和やかとは言い難い。


亜季が自分に向ける感情が、この先良い方に変化する確信なんてどこにもない。


それでも、彼女のああいう姿を見た今、胸に浮かぶのはたったのひとつの感情だけだ。


いつか、俺の事も物凄く大事にしてくれたりするんだろうか。


彼女の声で、大丈夫だと言われたい気持ちと、むしろこちらが安心させてやりたい気持ちの両方がないまぜになって溢れて来る。


亜季の心の在り処を知っているだけに、余計にもどかしい。


それでも、どうしようもなく好きだと思った。


一方通行にさえなっていなかった感情の答えに気付いた今、彼女の側に居る事実が、急に落ち着かない気持ちにさせられる。


天井を仰いで、丹羽はゆっくりと息を吐いた。


これからのアレコレは一旦まずは置いておいて。


もうすぐここに戻って来る亜季の表情が誇らしげであるようにと願わずにはいられなかった。

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