薔薇姫は事件に咲く〜美しき義足探偵〜
澤檸檬
第1話 高松と薔薇子1
不幸はいつも、突然だ。いきなり頭の上に降ってくる。
だから高松 駿はこう言うしかない。
「またか」
書店でのアルバイトを終えた帰り道。時刻は午後八時を少し過ぎたところ。暗い夜道を街灯や居酒屋の光が照らしている。
高校三年生、健康な男子である高松は、阿部新川駅前を通る今から出勤するらしき煌びやかな女性に目を取られていた。観賞魚のようにひらひらとドレスを靡かせる姿は、どうしたって視線を集める。
その瞬間だった。
阿部新川駅を出て右手にあるビジネスホテルの前で、何かが地面と衝突する鈍い音が響く。重量物独特の鈍さと、物体の柔らかさを感じさせる潰れる音。
高松は視線を鰭のようなドレスから、ホテルの前に移した。
そこには『冗談だろう』と否定したくなるような光景が広がっている。
阿部市の中では栄えている駅とはいえ、大都市に比べると人がまばらな阿部新川駅前。そんな少し寂しい風景を飾りつけるように、赤い液体が飛び散っていた。
「飛び降りだ!」
高松と同じようにその場にいた中年男性が叫ぶ。紺色のスーツを身に纏い、大きめのスーツケースを持っている男性だ。出張にでも来たのだろうか。だとすれば、不運にも程がある。慣れない土地でこんなものを見せられては。
その中年男性の言葉が、現状を全て説明してくれていた。
ホテルのすぐそばに男性が降ってきたのである。スーツ姿で靴を履いていない不自然な男性。
重力とは平等ながらも無慈悲なもので、人間の体をいとも簡単に半壊させた。背を下にして落下してきたその男性は、地面にめり込んだように背中側半分が潰れている。
「誰か救急車を! 私は警察に!」
先ほどの中年男性が、自分の携帯電話を操作しながら言った。
おそらくだが、救急車は必要ないだろう。どう見ても即死だ。
そう思った高松だが、少し現場に歩み寄り、自分の携帯電話を取り出す。周囲の人々が困惑によって動けずにいたからだ。
こんな現場に遭遇しておいて、何もしないのは後々罪悪感につながりかねない。高松も困惑はしていたが、不思議と冷静な思考が残っており、救急車を呼ぶくらいはできる。
人の役に立つ人間でありたい、という高松の信念が働いたのだろう。
「あの、俺が救急に」
高松が名乗り出ると、中年男性は警察に電話をかけながら頷いた。
『消防です。火事ですか? 救急ですか?』
電話から頼り甲斐のある声が響いてくる。
「救急です。男性が上から落ちてきて」
『落ち着いてください。場所はどこですか?』
「阿部新川駅前のビジネスホテルです。突然人が落ちてきて」
『わかりました。意識はありますか?』
「多分ないと思います。結構、血が飛び散っていて、その・・・・・・」
『そうですか。警察には連絡をしていますか?』
「はい、別の人が」
『でしたら、誰も近づかないように呼びかけてください。救急車を向かわせますが、それまで男性には触れないように。一応名前を聞かせていただいてもいいですか?』
高松が電話の向こうにいる消防の者と話していると、現場を取り囲むよう自然にできた人の輪から、誰かが歩み出てきた。
高松は慌ててその誰かに声をかける。
「あ、あの、誰も近づかないように、って消防の人に言われたんですけど」
言いながら顔を上げると、色素の薄い長髪が見える。
そこにいるのは、やけに目鼻立ちが整った若い女性だった。季節外れのロングコートを羽織り、長いスカートを履いたその女性は、高松の声など聞こえない様子で肩を左右させながら降ってきた男性に近づく。
「あの、ちょっと!」
慌てて高松は女性の背中を追う。それと同時に電話から『大丈夫ですか?』と聞こえてきた。
同時に二つの行動を強いられた高松は、電話に向かって「高松 駿です。救急車お願いします」と言い、通話を終了する。
そして間髪入れず、ロングコートの女性に声をかけた。
「ちょっと、救急車か警察が来るまで、近づかないでって言われてるんですよ」
高松がそう言うと、女性はようやく声が聞こえたかのように振り返り、喜怒哀楽のどれにも属さない表情で答える。
「警察はともかく、救急車は必要ないと思うな。後頭部は潰れているし、出血がひどい。間違いなく即死だよ。心配しなくても遺体に触れはしない。ただ、少し見るだけだ」
まるで本でも読むかのように女性は静かな表情を浮かべ、遺体だと決めつけた男性の体を眺めた。見るだけ、というのなら屈んだ方が見やすいはずなのに、女性は立ったまま飛び散った血液を踏まないよう見下ろしている。
そんな姿がどうにも不可思議で、高松は何も言えないでいた。
すると背後から中年男性が話しかけてくる。
「警察には連絡を入れたぞ。もうすぐ来るはずだ。君は学生だな? こんなものを見るべきじゃない、ともかく下がりなさい。そっちの君もだ」
大人を代表して、高松や女性を気遣う中年男性。素直に従おうと頷きかけた高松よりも先に、女性が口を開く。
「それじゃあ遅い。警察が来るまでの時間があれば、犯人が逃げてしまうぞ。ここは大都会じゃないからね、交番に常駐の警察官はいないだろう。ともかく現場保存はするとして、今じゃなきゃできないことをしようか」
女性がそう言うと、中年男性は少し呆れた声で聞き返した。
「一体何を言ってるんだ。現場保存? どう見ても飛び降り自殺だろう。子どもの好奇心で変なことをしちゃならん。ほら、二人ともいいから下がって」
再び現場から距離を取るように促した中年男性だったが、女性はその場を動こうとしない。
そんな女性の大胆な行動に感化されたのか、気づくと高松は疑問を言葉にしていた。
「あの、犯人って、どういうことですか?」
高松が問いかけると、女性は振り返りようやく表情らしい表情を見せる。薄く微笑むと『良い質問だ』と言わんばかりに、話を始めた。
「体の向きを見ればわかるだろう、背面から落ちている。血液のせいで見づらいが、おそらく肩甲骨辺りから落下したものと思われる。飛び降り自殺の場合、そのほとんどがうつ伏せになるものだよ」
女性が説明した通り、降ってきた男性はうつ伏せではなく仰向けで落ちてきた。だが、それだけで自殺じゃないと言い切れるものだろうか。
そんな高松の疑問と同調するかのように、中年男性が女性に言う。
「仰向けに落ちてきたからって、事件とは限らないだろう。子どもの浅知恵で、こんな現場を掻き回すもんじゃないぞ。空気抵抗か何かで、姿勢が変わることもあるんじゃないのか」
「この阿部新川駅前ホテルは、確か十階建て。仮に屋上から落ちてきたものとしても、高さは三十メートル前後。それくらいの高さであれば空気抵抗があろうと体勢は変わらないよ。たとえこの男性が向きを変えようとしても、時間が足りない」
女性は中年男性の説を否定すると、ホテルの屋上を見上げた。高松は女性の視線に誘導されるように、顔を上げる。
大して栄えていない駅前のビジネスホテルであれば、これくらいだろうと納得できる素朴な外観。各階に四つずつ窓があり、何部屋か電気がついている。だが、どの部屋も窓は開いていなかった。
冷静に状況把握を進める女性に対して、中年男性は話を続ける。
「背中から飛び降りる可能性だってあるはずだろ。ともかく、余計なことはせずに警察を待つべきだ」
真っ当な意見だ。自殺であっても事件であっても、素人が手出しするべきではない。まだ高校生の高松にもそれはわかる。
けれど、妙に自信を感じる女性の行動を止めようという気持ちは湧いてこなかった。
「どの階層も窓は開いていない。すると屋上か・・・・・・だが、暗くて見えないな」
女性はそう呟いてから、中年男性に答える。
「飛び降りなら、存在しないはずのものがあるのさ。遺体の右手、中指と薬指の爪が割れている。真新しい血が滲んだ傷だ。その上、黄色の塗料が剥がれ付着している。屋上に行ってみないとわからないが、おそらく柵か何かを掴もうとした時のものだろう。自ら飛び降りたのなら、こんなものは存在しないんじゃないかな」
しかし、大人を代表しているつもりの中年男性は引かない。
「途中でためらっただけかもしれないだろ。子どもの浅知恵で、そんな」
「浅知恵? 疑問なんだけど、どうして若いと浅いがイコールなんだい? 私はまだ十九だが、私よりも浅いな、と思う大人は多いよ。それよりも、真っ先に勇気を持って警察に連絡をした貴方にお願いがある」
女性は不満を織り交ぜながら、大胆にも中年男性を巻き込もうとし始めた。
中年男性は、意味がわからず首を傾げてしまう。
「はぁ? お願い?」
「ああ、警察が来るまでホテルから誰も出てこないように見ていてほしい。この状況をホテルの従業員に伝え、裏口なんかも閉じるように、と。仮に事件じゃなくとも、ホテルの宿泊客が出てきたらパニックになりかねないだろう?」
女性の頼みは、これまでの言動に比べると随分正しいものだった。言っていることも理由も、中年男性にとって理解できるものである。
腑に落ちない気持ちは拭えないものの、中年男性に断る理由はなかった。
「ああ、わかった。いいか、君たちはそこを動くなよ」
そう言ってホテルの中に入っていく中年男性を、静かに見送る高松と女性。
そのまま大人しくしているのか、と思いきや女性は「さて」などと言い始めた。何かをする気が溢れている。
高松が視線を送ると、女性と目が合った。
「あの、俺たちは人が近づかないように見とく、でいいですよね?」
「そんなはずがないだろう。それよりも少年、名前は?」
「え、名前ですか? 高松 駿です」
大して年齢は変わらないのに『少年』呼ばわりされることに、若干の不満を覚えながら高松は答えた。
「そうか、高松くん。私は王隠堂 薔薇子。気軽に薔薇子さんと呼べばいい。ところで高松くん、体力に自信はあるかい?」
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