第39話 関西弁のマスター

 木製のしっかりしたドアを開くと、何倍にも膨れ上がった香ばしさが押し寄せてくる。珈琲は色だけでなく香りまで濃い。その濃度によって珈琲は、多少ミルクや砂糖を混ぜても珈琲の輪郭を保つ。それほどの存在感だった。

 高松たちが店に入ると、右側のカウンターから黒いエプロンをした男性が声をかけてくる。


「いらっしゃいませ」


 カフェ『グラシオソ』のマスターだ。

 カウンターはドアの近くから奥の方へ伸びており、カウンター席が横並びで四席用意されている。その背中側には、人が通るスペースを開けてテーブル席が三つ、六席分あった。各テーブルを挟むように二席ずつだ。

 入り口の左右と店の一番奥には、独特な曲がり方をした幹を持つ観葉植物が飾られ、店全体の雰囲気に温もりを足している。

 カウンター席の最奥には一人の眼鏡をかけた若い女性客。同じくテーブル席の最奥には、本を読んでいる中年の男性客が一人。入り口から最も近いテーブル席には、仲睦まじい恋人らしき若い男女が座っている。

 空いている席はカウンターの三席と、真ん中のテーブル席だ。こういった状況では、ほとんどの人がすでにいた客と隣り合わない席を選ぶだろう。高松も無意識のうちにそうしていた。

 

「薔薇子さん、ここが空いてますよ」


 そう言いながら高松は、入り口に近いカウンター席を指す。入り口から順に座れば、カウンター席の女性とも、テーブル席の三人とも隣り合わない。

 薔薇子がすんなりと入り口に一番近い席を選んだので、高松はその隣に座る。

 二人が座るなり即座にマスターが、おしぼりと檸檬の輪切りが浮いた水をカウンター上に置いた。


「今日はえらい別嬪さん連れてるな、高松くん」


 常連である高松にとっては、聞き慣れたマスターの関西弁。落ち着いた、大人の色気を感じさせるマスターの容姿と、あまりにも不釣り合いな明るい声だ。

 それにしても、と高松は思う。片桐の時もそうだったが、薔薇子をみると誰しもが容姿の話をする。それが正しい反応かどうかは一旦置いておくとしても、やはり彼女は誰からみても美しいのだろう。

 このままでは茶化されると察した高松は、苦笑しつつ話題を変えた。


「こんにちは、マスター。やっぱりこのカフェは、人が多いですね。お客さんがいないところを見たことがないですよ」

「お陰さんで、ぼちぼち繁盛させてもらってます。でも、このご時世やからね、高松くんにはもっと通ってもらわんと」

「高校生に無理言わないでくださいよ。というか、今でも結構来てると思うんですけど」

「ははっ、冗談やで。いつもご来店いただきありがとうございますね。感謝感激雨あられ。ついでに、もう一つひなあられってな。高松くんはいつものでええの?」


 独特なテンポの会話に混じり注文を問われた高松は、首を縦に振り肯定する。


「あ、はい。エスプレッソとチーズケーキで」

「ちょいちょい、高松くん。こっちが気を利かせて『いつもの』って言うとるんやから、かっこよく『いつもので』って言わんと。そういうのに憧れる時期やないの?」


 心なしか、いつもよりマスターが浮ついている気がする。話し方こそ砕けているものの、マスターはカフェの雰囲気を崩さないよう、一定の距離を置いてくれる人だ。おそらく高松が女性を連れてきたことで、マスターは張り切ってしまったのだろう。良かれと思い、場を盛り上げてくれている。

 それが善意であっても、高松にとっては気恥ずかしい要素だ。


「マスター、そういうのいいですから」

「そんな照れんでもええやん、高松くん。女の子の前でええ格好したいんは、男の本能やで」

「照れてませんよ、もう」

「ははっ、ごめんなぁ。高松くんがバイト関係あらへん女の子連れてくるなんて初めてやから、俺の方がテンション上がってしもて」


 常連の男客が、緊張した様子でやけに綺麗な女の子を連れて店に来た。マスターにとってそれは、心の奥がこそばゆくなるほど嬉しいことである。言語化するのは難しいが、青春味の炭酸飲料を飲んでいるような気になっていた。

 高松は「なんでマスターのテンションが上がるんですか」と小声で不満を漏らす。


「それで、こっちの別嬪さんは何にします?」


 マスターが薔薇子に尋ねた。高松が視線を彼女に移すと、一体何が作用したのかはわからないが、薔薇子は嬉しそうに右の口角を上げている。彼女の精神状況を把握するのは、本当に難しい。

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