第38話 カフェ『グラシオソ』
薔薇子から『忠告』を受けた高松は「そういえば」と話を変えた。
「お金を返すだけなら、父さんに預けてくれれば俺に届きますよ。何度か会ってるみたいですし、薔薇子さんも事情聴取を依頼されているんじゃないですか?」
今朝、高松の父親である菊川警部を名乗るメールが、高松の携帯電話に届いていた。内容は高松が言った通り、昨夜の事件について事情聴取を行いたいというもの。
すでに犯人が逮捕されているため、捜査というよりも起訴に持っていく証拠が欲しいのだろう。高松も薔薇子も第一発見者であり、事件解決の協力者だ。
これが容疑者不明の事件であれば、今すぐにでも聴取を行いたいところだろうが、犯人である飯島が素直に供述しているため、高松には『土曜日に警察署まで来てほしい』と頼んでいた。
そのことから高松は、薔薇子も警察署に呼ばれているのだろう、と推測したのである。
「確かに菊川警部には呼ばれているけれど、私は昨夜も言った通り、同じことを二度話すのは嫌いなのさ。二度も同じ話に触れるのは、小説の中だけでいい。そう思わないかい? だから、事件後の呼び出しに応えたことはない。もう菊川警部も、諦めているんじゃないかな」
「六年間会ってなかったのに、父さんの呆れる顔が目に浮かびますよ」
高松はそう苦笑してから、また薔薇子を立たせたままにしていると気づいた。そもそも薔薇子は、高松のために時間と労力を割き、アルバイト先まで来てくれた。そんな彼女を立たせたままでいいわけがない。
しかし、まだまだ薔薇子には聞きたいことがある。
そこで高松はこう提案した。
「あ、そうだ。俺がバイト終わりによく行くカフェがあるんですけど、そこに行きませんか? すぐ近くですし」
「カフェ?」
誘われた薔薇子は首を傾げ、心の底から不思議そうな表情を浮かべる。
「喉が渇いたのかい、高松くん。それなら、わざわざカフェに行かずとも、そこに自動販売機がある。先ほど返した千円札で、お茶でも買えばいいじゃないか」
彼女の中に『カフェで話をする』という選択肢はない。高松が喉の渇きを潤すためにカフェへ誘った、と本当に思っていた。
「いや、喉は乾いてないですけど、立ち話をするよりいいじゃないですか」
高松がそう答えると、薔薇子は得意げに口角を上げる。
「ふむ、なるほど。高校生が放課後に男女でカフェに。おやおや、キミは中々積極的だな。素直に『薔薇子さんとカフェでお茶がしたいよー』と、言えばいいじゃないか」
彼女の言い方に納得はできないものの、高松が薔薇子をカフェに誘ったのは話がしたいからだ。意味に大きな違いはない。
「・・・・・・薔薇子さんとカフェでお茶がしたいよー」
感情を込めることに失敗しつつ高松が言うと、薔薇子は唇を尖らせた。
「やっぱりキミはモテないな、高松くん」
カフェ『グラシオソ』は、阿部新川駅から徒歩五分の位置にある。梅原書店からも同じく徒歩五分だ。
席数は十席と少なく、個人経営の小さなカフェだが、アンティークの家具や装飾品で西洋風にまとめられた内装は非日常を感じられ、どこか違う世界にでもいるかのように思わせてくれる。高松にとって癒される空間だった。
「薔薇子さん、こっちです」
店の前で高松が言う。
すると薔薇子は歩みを止め、澄ました表情で店前の看板を読み上げた。
「カフェ『グラシオソ』、良い雰囲気のカフェじゃないか。高松くんがこんな場所を知っているなんてね。もしかして『誰か』に紹介された店なんじゃないのかな? そう、本と緑のエプロンが似合う『誰か』にね」
彼女が誰のことを言っているのか、高松はすぐに察する。完全に図星だった。グラシオソはアルバイト中、片桐から紹介され、通い始めた店である。
「ささっ、入りましょう」と高松は話を逸らした。どういうわけか、片桐の話をすると薔薇子の機嫌が悪くなるからだ。風が吹き、薔薇が揺れると棘で傷つく可能性がある。自ら風を起こす必要はない。
さらに高松は言葉を続けた。
「この店の珈琲は本当に美味しいんですよ。特にお勧めは」
「エスプレッソ、じゃないかい?」
食い気味に答える薔薇子。彼女が口にした答えは正しい。グラシオソの看板メニューは濃厚な味わいのエスプレッソと、コクのあるチーズケーキ。高松のお気に入りもその二つだ。
しかし、店前にエスプレッソを勧めるような看板は出ていない。
「ど、どうしてわかったんですか?」
「簡単な話だよ、高松くん。店名の『グラシオソ』はイタリア語で『優雅』という意味。イタリアで珈琲といえばエスプレッソのことなのさ。そんなことも知らずに、通っていたのかい?」
そう言いながら薔薇子は、ガラス窓から店の中を覗く。小さな店内。カウンターの中では、黒いエプロンをした背の高い男がエスプレッソマシンを操作している。カウンター席、テーブル席には合わせて四名の男女が座っていた。
店に入る前から、珈琲の香りが鼻腔を刺激してくる。奥深く、濃く、広がりのある香りだ。
嗅覚とは不思議なもので、記憶と強く結びつくもの。高松が店のドアを開けると、薔薇子は何かを懐かしむように、優しい表情を浮かべていた。
「ああ、いい香りだね。酔いそうなほど、『美味しさ』が充満している。胸が躍るよ」
薔薇子は珈琲が好きなのか。この時の高松は呑気にそんなことを考え、カフェ『グラシオソ』に彼女を連れて来てよかった、と手応えさえ感じていた。
珈琲に混じった悪意の香りなど、彼はまだ微塵も気づいていない。
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