第40話 雲雀山 春宵
上機嫌な薔薇子は、マスターにこう注文する。
「それじゃあ、私も『いつもの』を頼んでもいいかい?」
それを聞いたマスターは、一瞬高松の顔を見た。彼女の言葉から何も感じていない鈍感な少年に対し、含みのある微笑を送り「かしこまりました」と会釈する。
マスターがエスプレッソマシンを操作している背後で、薔薇子が頬杖をついた。
「そうかそうか、高松くん。キミが女の子を連れてくるのは『初めて』なのか。キミは本当にモテないんだな」
「・・・・・・なんで嬉しそうなんですか」
「そんなことはないさ。優しさに満ちる薔薇子さんの心は、高松くんに対し憐れみを抱いているよ」
「憐れまれる覚えはありませんよ」
「仕方がないから、私が高松くんの『初めて』になってあげよう」
行きつけのカフェに初めて連れてきた女性、というだけだ。そこまで強調されることではない。高松は腑に落ちない気持ちを抱えながら、変に苦笑してしまった。
エスプレッソを待っている間、薔薇子の話を聞こうと高松がタイミングをはかる。しかし、そこにいるだけで圧力のある薔薇子。話し始めるのがひどく難しい。
高松がまごまごしていると、二人の背後、テーブル席の方からカップルの声が聞こえてきた。
「本当に良かったよね、ラストシーン。呼吸できなくなるかと思ったもん。まさか、あんな小さな証拠から犯人を特定するなんて」
女の方が、何かの感想を述べている。男は携帯電話を操作しながら、視線を動かさずにカップを口につけていた。
「うん、面白かったな」
「だよね、だよね。今年一番の映画だよ、絶対。原作小説も買っちゃおうかな」
「そうだな」
ミステリー映画の感想を述べる女と、関心の薄そうな男。一緒に映画を見てきた帰りだろうか。特別聞き耳を立てていたわけではないが、話は高松の背中に飛び込んでくる。
薔薇子に話しかける言葉に迷っていた高松は、受け止めた情報に引っ張られ、話題を決めてしまった。
「あの、薔薇子さんは小説が好きなんですか?」
突然問いかけられた薔薇子は、目を丸くしてから首を傾げる。
「わざわざカフェに誘って、聞きたかったことがそれかい?」
「ええ、まぁ」
「せっかくイタリアを想わせるカフェにいるんだ、『今頃天国は大騒ぎだろうね』くらい言えないのかい、高松くん」
「天国?」
今度は高松が首を傾げた。彼女が何を言っているのか、本当にわからない。
すると薔薇子は、艶やかな唇を薄く開いた。
「そうさ。『キミという天使がいなくなったからね』ってね」
文脈から考えて、おそらくイタリア人男性が女性を口説く時の例文でも使用しているのだろう。
高松は目を細め「俺は日本人ですから」と返答した。そもそも自分のことを『天使』と表現することに抵抗はないのだろうか、と思う。
確かに薔薇子は美しいが、天使というよりも魅惑的な悪魔の方が近い。
高松の反応が面白くなかったのか、薔薇子は諦めたように先ほどの質問に答えた。
「小説は嫌いじゃない。ああ、曖昧な表現をしたわけではないよ。好きというほど、執着があるわけではないんだ。けれど、小説に触れた回数や時間は、それなりに多く長い。だから嫌いじゃない。適切な表現だと思ってくれ」
薔薇子はそう言ってから、斜め上に視線を動かす。何かを考え、何かを察した。彼女はそんな様子で頷く。
「そうか、キミに余計な考え事をさせてしまったようだな。随分と遠いところから話を始めたが、高松くんの聞きたいことは『雲雀山 春宵』について、か。昨夜、私が口にしていた言葉を覚え、考えていたというところだろう。すまないね、キミがそんなに思考力のある人間だとは思っていなかった」
謝っているのか、貶しているのか、褒めているのか。高松には反応に困る言葉だった。
けれど彼女にとっては、質問に答えただけ。そこに善意も悪意もない。
だが、彼女から雲雀山 春宵に触れてくれたことは高松にとってありがたかった。どうしても聞きたかった、本命の話題へとスムーズに移すことができる。
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