第55話 一グラムの粉末
高松が『忘れている事実』だけを思い出している内に、菊川警部による薔薇子への聴取は終わっていた。
「駿。どうしたんだ、駿」
父親に呼ばれ、高松は背筋を伸ばすように顔を上げた。
「え? 何、父さん」
「ぼーっとしてどうした? いや、普通に考えれば、二日連続で人の死に立ち会ったんだ。平気な方がどうかしている。疲れたんなら、椅子に座っていればいい。必要な捜査が終われば、すぐに帰れる」
「そうじゃないよ。何か忘れているような気がして・・・・・・」
高松がそう答えると、菊川警部は『しまった』と言わんばかりに自分の口元を手で覆った。その行為自体に意味はないのだろうが、失言を防いでいるようにも見える。
失われた『はず』の記憶に、一歩一歩近づいている。ゆっくり、だが確実に。何かに向かっている。過去に植えられた種が、芽吹き始めたような感覚に高松は思考を奪われていた。
その間にも薔薇子は、義足と左足を交互に踏み出し、カフェ『グラシオソ』内を歩き回る。
カウンターの木目、窓に付着した小さな汚れ、カップの配置、マスターの動線、観葉植物の種類、照明器具の明るさ、コーヒー豆の銘柄。取るに足らない小さな情報が、彼女の力強い瞳を通して、脳に集結する。
まるで砂粒をひとつずつ積み上げて、城を作るような作業だ。
「なるほど」
薔薇子は納得したように、それだけを呟く。彼女の言葉に嘘はない。その理解に嘘はない。
他の者と違うのは、彼女の頭の中には『城の設計図』がある点だ。無作為に積み上げた砂を削り、盛り、形作る必要がない。最初から最小の時間で、最適に城の完成へと向かうことができる。
自分から薔薇子が離れている、と高松が気づいたのは、菊川警部が彼女に声をかけた時だった。
「王隠堂さん、まだ検死途中だが毒の種類は判別できたそうだ」
明らかに重要な情報である。話についていけなくなることを懸念した高松は、慌てて薔薇子に歩み寄った。
「おや、高松くん。ようやく『夢現つ』から帰ってきたようだね。おかげで私の綺麗な脚は棒のようになってしまったよ」
薔薇子は自分の左足を踏み出すようにして、強調する。
「ぼーっとしていたのは申し訳ないですけど、薔薇子さんを背負うのは俺の役目じゃないですからね。というか、今は背負う必要がないじゃないですか」
「私は何も言っていないよ。そこまで背負いたいのなら、気が向いた時に背負わせてあげてもいい」
「そんなこと言ってません」
言い返す高松だったが、二人の会話を聞いていた菊川警部の咳払いによって、言葉は宙に浮かんだまま消えてしまう。
「こっちの話を進めてもいいか? 最優先で毒の種類を判別するよう言っていたのは、王隠堂さんだろう」
「ああ、失礼、菊川警部。警察に求めることは『事実を事実だと証明すること』だからね。役目をしっかりと果たしてくれて、市民としては鼻が高いよ」
煽るような言葉ではあるが、これは薔薇子の本心だ。今更、菊川警部が腹を立てることなどない。
「大塚 誠の遺体から検出された毒は『タリウム』だ」
警部の報告を聞いた高松は、聞きなれない名称に首を傾げる。毒だと知らなければ、ゲームの中に出てくる『パワーアップアイテム』だと勘違いしてもおかしくない名称だ。
「タリウム? ヘリウムガスとか、カルシウムとかに似てますね」
知識なき者独特の軽薄な感想を述べる高松。
すると薔薇子は、神妙な面持ちで首を横に振った。
「頓珍漢も大概にすべきだ、高松くん。『毒である』という前置きがあっただろう。いや、タリウムは猛毒と言ってもいい。元素番号は八十一。硫化タリウムという形の化合物として殺鼠剤に用いられていたものだよ。主に白い粉末の形で扱われている。その致死量は成人でも一グラム。わかるかい、高松くん。たった一グラムで、人が死ぬ粉末なのさ」
彼女の言う『一グラム』は重く、ずっしりと高松にのしかかる。
「猛毒・・・・・・」
「数時間かけてタリウムは体を蝕んでいく。吐き気や腹痛が現れ、最後には呼吸困難を引き起こす。そんな毒だよ。先ほども言ったが、殺鼠剤に使われる物質でもある。だが、その毒性や誤飲による事故の可能性を考慮し、世界保健機構は千九百七十三年から、使用を控えるように訴えかけている」
さらに薔薇子の言葉は続く。
「これではっきりした。タリウムなんてものを、一般人が誤飲できるはずがない。何者かが悪意と殺意をもって飲ませない限り、口に入るものじゃあない。改めて言おう、これは『殺人』だ」
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