第49話 甘く痛い毒、苦い苦い真実

「怒りとは非常に非効率的な感情だ」


 そう薔薇子は続けた。


「特定の思考を阻害し、特定の行動を増幅させる。厄介で、煩雑で、面倒な感情だよ。けれど、元々人間は厄介で、煩雑で、面倒なものだ。非効率的な生き物なんだよ。つまり、怒りとは人間である限り、至極当然の感情といえる。私にもそれは大いに理解できる・・・・・・だからこそ、この事件は気乗りしないんだよ、高松くん」


 事件に対しての姿勢について問いかけた訳でもないのに、薔薇子の気持ちを聞かされた高松は、彼女の心境を理解できずにいた。


「じゃあ、この事件からは手を引くってことですか?」

「えらく短絡的思考だな、竹内くん」

「高松です」


 蔑称として扱われている竹内刑事に同情しつつ訂正する高松。そもそも先ほど、薔薇子を水から守ってくれていただろう、とタオルでスーツを拭く竹内刑事に視線を送った。

 どうやら旗本の怒りは、制服警察官によって宥められ落ち着いたらしい。

 そんなことなど一切気に留めず、薔薇子は高松に語り続ける。


「私が事件を手放すはずがないじゃないか。『気乗りしないイコール手出しをしない』なんてのは、あまりにも直線的すぎるね。知らないのかい、高松くん。女性は『言葉』と『感情』が必ずしも一致しないものなのさ。『いいよ』と言いながら嫌がっている時もあれば、『やだ』と言いながら喜んでいる時もある。男性に求められるのは『女心』を理解し、最適解の行動を起こすことだ。ああ、高松くんには無理な話だったね」

「この話の流れで、俺が傷つくことになるとは思いませんでしたよ。それで何が言いたいんですか、薔薇子さんは」


 改めて問いかけてみると、薔薇子は薄く微笑を浮かべた。


「怒りと女心だよ、高松くん。わからないかい? 私は旗本氏に『大塚くんの女性関係について』問いかけた。それに対し、旗本氏は暴力的なまでの怒りを見せた。いいかい、彼女は落胆や動揺よりも先に、怒りを見せたのさ。高松くん、彼女は何故怒ったのかな?」

「そりゃあ、こんな状況で恋人の浮気を突きつけられたら・・・・・・あれ、でも証拠もなく怒るものなんでしょうか。いや、携帯電話の連絡先を見れば」

「いや、私は見せていないよ。ただ、問いかけただけだ」

「じゃあ、どうして旗本さんはあんなに怒って・・・・・・」


 何故怒ったのか。その問いに対し、高松は答えを出すことができなかった。会話の中で、薔薇子の問いと同じ疑問を抱いただけである。

 すると薔薇子は自分のこめかみを指で叩きながら、恐ろしく綺麗な微笑で口を開いた。


「彼女は知っていたのさ。自分の恋人に他の交際相手がいる、とね。人が怒るのは隠しておきたい事実を暴かれた時。自分のプライドを傷つけられた時。いわれのない同情を受けた時。自分自身を可哀想だと思った時。そして、相手の言葉を受け入れたくない時。旗本氏は自分が『何人もいる交際相手の一人』であると知っていた。その事実を言語化され、沸騰した血が暴力的な行動を起こさせたんだよ、高松くん」

「旗本さんが知っていた・・・・・・それじゃあ、大塚さんの浮気を知った旗本さんが毒を?」

「ふふっ、どうだい、高松くん。真実が知りたくなってきただろう? これは毒さ。甘く痛い毒。真実の中毒性はこの世に類を見ない。始めようか、この芳しい謎の解明を。そして残念なことに、もう終わっている。あとは抽出するだけなんだよ。小さなカップに苦い苦い真実を淹れるだけ」


 そう言ってから薔薇子は、先ほど飲めなかったエスプレッソを見る。消えてしまった泡の記憶が、濁った液体に沈み、酸化した苦味だけがカップの中で泳いでいた。

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