第22話 他の痕跡
黙って聞いてはいられない、と高松が声をかける。しかし、彼女は冗談を言っている様子ではなかった。自信に満ちた瞳と上がった口角が、彼女の本気を知らせている。
命の価値を軽んじているわけではなく、自分の推理に絶対の自信を持っているのだ。その上で『事件を解決することは自分の命よりも大切だ』と心から思っている。
「何を心配することがあるんだい、高松くん。薔薇子さんは名探偵なんだぜ? 名探偵は推理を間違えないんじゃあない。間違えない推理をするから名探偵なんだ。私は間違えない」
薔薇子はそう言った後、高松にしか聞こえない声量で言葉を付け足した。
「六年間も死んでいたんだから」
「六年間?」
「いいや、なんでもないよ」
どうにも誤魔化されたような気がしてしまう高松だったが、今は薔薇子の邪魔をするわけにはいかない。小さな疑問は飲み込むことにする。
薔薇子の覚悟を聞き、黙ったのは高松だけではなかった。犯人扱いされた飯島も、これ以上の反論は疑い濃度を上げてしまうだけだ、と口を閉じる。
「さてと、証拠を出せという話だったかな。証拠だけを並べ立ててもいいが、それは私の趣味じゃあない。根を張り、茎を伸ばさなければ花は咲かないしね。順番に説明してあげよう。キミが諦めるまで」
そう語った薔薇子は、視線をゆっくりと移動させ、被害者が立っていたであろう場所を見る。彼女の目には人を惹きつける何かがあり、ハーメルンの笛吹きに導かれた子どもたちのように全員が視線を誘導された。
「まずはこの黄色い柵。被害者の右手中指と薬指に付着していた塗料と酷似している。菊川警部、鑑識の結果はどうだった?」
菊川警部は自分に向けられた問いに答える。
「爪の塗料と柵の塗料。二つの一致率は九割八分を超えている。また、柵の塗料を調べた結果、爪痕があった。被害者が落下する際に掴んだものと思われる」
「思われる、じゃないんだよ、菊川警部。確定させない言い方しかできないのかい?」
報告をしてくれた菊川警部に対して、横暴な物言いをする薔薇子。彼女は『やれやれ』といわんばかりにため息を吐くと、話を続けた。
「被害者の爪は割れていただろう? それによって血が滲んでもいた。その状態を見れば、爪に塗料が付着してから割れたとわかる。つまり、被害者は自分の意思に反し落下してしまったということさ。それ以外にも自殺ではない証拠はもう一つある」
そう言ってから薔薇子は柵の外を指差す。
「被害者は、背面から飛び降りたとは思えない位置に落下している。竹内刑事、この屋上の端から真下に線を引いた点と、被害者の足までどれくらいの距離だった?」
次の問いは竹内刑事に向けられた。いきなりの質問も二度目となればそう驚かない。竹内は即座に答える。
「あ、はい。屋上の端の真下から被害者までは二メートル二十五センチです。菊川警部に言われて調べておいたんですけど、これが何か?」
「菊川警部に指示を出したのは私だ。どうせ部下に依頼すると思っていたよ。そして竹内刑事、この話を聞いて何も思うところがないのかい? そういえば、駅にアルバイト求人の情報誌が置いてあったよ。帰宅時に持って帰るといい」
「あの、転職を勧められたんですけど。僕、何かを見落としていますか?」
薔薇子の言葉を聞いた竹内は、悲しそうに肩を落とした。追い打ちをかけないように、と高松が視線で訴えかけなければ、薔薇子は『見落としているのは、自分の適性だよ』とでも言っていただろう。
自分の部下が凹んでいるのを見た菊川警部は、鼻から息を漏らして竹内の下がった肩を叩いた。
「いいか、竹内。被害者は背面から落ちたんだぞ」
菊川警部は身振りを交えて説明を始める。
「屋上の縁を蹴って飛んだとして、二メートル以上も飛べると思うか?」
「頑張れば、なんとか」
竹内は考える間もなく答えた。上司としては、少し頭の痛くなるような答えである。
「竹内、筋トレもいいが少しくらい勉強はしろよ。被害者は一般的な四十代だ。二十代の筋肉馬鹿と一緒にするな。高低差によって多少距離を稼げるとはいえ、二メートル以上も飛べるはずがない。前方向への幅跳びでも、まぁ、二メートルがせいぜいってとこだ。後ろ向きに飛ぶトレーニングでもしていない限り、自力で飛ぶことは不可能。仮に自力で飛べたとしても、爪痕と矛盾する」
「あー、なるほど。自殺ってことはあり得ないって話ですね」
「王隠堂さんは、その不可能さを数値で証明するために、距離を測らせた。そういうことだ」
菊川警部が説明を終えると、薔薇子は「新人教育は済んだかい?」と悪気なく問いかけた。
「僕、別に新人ってわけじゃないんですけど」という竹内の反論は、当然のように聞き流される。
薔薇子は転職のススメを終えると、話を事件の方に戻した。
「この後に及んで、これが自殺だと唱える者はいまい。続いて、この柵に残る他の痕跡について話をしよう」
他の痕跡。薔薇子の口から出た新しい情報に、高松は首を傾げる。
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