第89話 一番強い色は赤

「そっか」


 茉莉花は、湿り気のある相槌を打ち、優しい瞳で高松を見つめる。母の目は心の奥底を覗くようでもあり、抱きしめるようでもあった。

 突然、昔の話をされた高松は、首を傾げて聞き返す。


「なんでいきなりチョコの話?」

「だって駿、その頃の記憶に曖昧な部分があるでしょ。小学五、六年生の辺り。覚えてるかなって確認よ。チョコのこと覚えてるなら、チョコが死んですぐのことも覚えてる?」


 誰だって子どもの頃の記憶には、曖昧な部分があるだろう。高松は特に小学五、六年生頃の記憶が薄い。

 けれど、チョコが死んだ後のことは覚えていた。


「確か、俺が父さんに怒鳴ったんだっけ」


 自分で言葉にしながら、鮮明にその時のことを思い出す。

 チョコが息を引き取り、生前お気に入りだったクッションの上で横たわっている姿。縋り付くように泣き喚く小さい高松。

 そこへ何日間も帰宅していなかった、当時は刑事である父が帰ってくる。チョコの死は茉莉花が電話で知らせていた為、しばらくは黙ってチョコの遺体と高松を交互に眺めるばかりだった。

 どれだけ時間が経っても、高松の涙は止まらない。友との、家族との永遠の別れだ。泣きじゃくるのは仕方がない。当然のことだろう。

 そんな高松に対して、父はこう言い放った。


「駿、いつまで泣いているんだ。お前がどれだけ泣いても、チョコが帰ってくるわけじゃない。いつものように、元気に遊んでこい。家にいるからいつまでも泣くんだろ。大体、犬の寿命は短いものだ。人間より早く死ぬのは仕方がない」


 今にして思えば、励ましのつもりだったのかもしれない。その言葉に間違いはないし、紛れもなく事実だ。しかし、当時の高松は父の発言が許せず、涙目のまま睨みつけた。


「父さんは、ずっと家にいないからチョコが死んでも悲しくないんだろ! チョコは家族だ! チョコが死んで悲しくないんなら、父さんが家族じゃない!」


 感情に任せて怒鳴る高松に対し、父は目を閉じ、痛みに耐えるような表情で言葉を返す。


「犬は、犬だ」


 父にそう言われ、高松は言葉を失った。なんて冷酷なんだ、と。

 そのまま父は、「茉莉花、替えのシャツを出してくれ。着替えるために帰ってきたんだ」と、自分の用事を済ませ、仕事に戻っていった。

 広がる青の絵の具を、濃い赤で塗りつぶされたかのように、心の中で悲しみが怒りに変わる。

 そんな記憶だ。

 話は食卓に戻り、茉莉花は息子が思い出したことを察し、口を開く。


「本当はね、一番悲しかったのは父さんなのよ」

「え?」


 あんなことを言ってきた父が、一番悲しんでいた。そんなこと信じられない、と高松は訝しげな顔をする。

 茉莉花は再び優しく微笑み、話を続けた。


「チョコはね、父さんの友達の家で生まれた犬なのよ。もうその友達も、母犬も亡くなっているけど、父さんにとっては大切な存在だったはずよ。それに、チョコの誕生日がちょうど駿と同じだったでしょ? 実は生まれた時間までほとんど同じだったのよ。だから、駿の兄弟なんだ、ってね。父さんにとって息子も同然だったのよ」

「だったらなんであんな酷いことを」

「それはね、駿が泣いていたからよ」


 母親の言っている意味がわからず、高松は「俺が?」と聞き返すしか出来なかった。


「こんな話を聞いたことはない?」


 茉莉花は言葉を続ける。


「お化け屋敷とか、ホラー映画とか怖いものが苦手な人は、『何かに怒りながら挑む』と怖く無くなるって話。怒りって感情は、他の感情よりも強いんだって。多分、悲しみよりもね」

「怒りは悲しみよりも・・・・・・じゃあ、父さんは俺が悲しんで泣いてたから、わざと自分に怒りを向けさせたってこと?」

「不器用な人よね。なんだって自分を犠牲にすればいいと思ってるのよ、あの人は。それが母さんにとってはムカつくんだけど」


 父親の真意を知り、呆然とする高松の前で茉莉花は麦茶を啜った。


「父さん・・・・・・」


 事実、高松は父親に怒りをぶつけることで泣き止み、チョコの火葬を静かに見送っている。天に旅立ち、虹の橋を渡る最愛の友人に、泣き声ではない言葉を送ることができた。



「それと同じことをしたんじゃないの?」


 思い出と真意を照らし合わせている最中の高松に、茉莉花が言う。


「え?」

「その『薔薇子さん』って子よ。その『交際相手』だった二人にしてみれば、一度に二回も恋人を失っているんだもん。悲しいだろうし、混乱するだろうし、精神を保つどころかその場に立っているのもやっとじゃない? 誰にどんな感情をぶつけていいのか、わからないもの。妙な行動を起こすってこともあったかもしれないわ」

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