第90話 共通の敵
茉莉花の言葉を聞き、高松は事件現場で起きそうだったもう一つの事件を想像する。
旗本と最上川の口論。俗っぽい言い方をすれば、修羅場が起こり得た状況だっただろう。
それを回避できたのは、薔薇子が『共通の敵』になったから。
悲しみと困惑、そして方向性の定まらぬ憤り。薔薇子は一身に『怒り』として受け止めた。
薔薇子の言葉で生まれた怒りは、その他の全てを塗り替えていたのである。もう少し想像を膨らませるのならば、あの場で大塚に執着を見せていた最上川は、夜一人になった時に自害すら考えたかもしれない。
そんな絶望すら、薔薇子への怒りがあれば乗り越えられる。『何よ、あの女』と哀しみではなく、怒りで一夜を過ごすことになるだろう。
「それじゃあ、薔薇子さんはわざと二人を煽った・・・・・・」
高松がそう呟くと、茉莉花は真っ直ぐ純粋に育った息子に優しく微笑む。
「かもしれないって話よ。けど、それだけ頭がいいならもっと上手く立ち回れたはずなのに、不器用な子なのね」
「薔薇子さんが、不器用? あー、でも不器用なのかも。どうしようもないほどに」
「なーにわかったような口を利いてるのよ、小童のくせに」
「小童って」
母親に『小童』呼ばわりされ、苦笑する高松。すると茉莉花は悪戯っぽく目尻を緩ませた。
「体だけ一人前に大きくなっても、アンタはまだまだ子ども。その『薔薇子さん』の行動の裏には、彼女が受けてきた優しさと厳しさって下地があるのよ。だからどうしても不器用になる。『薔薇子さん』もまだ若いんでしょ? 優しさと厳しさのバランスが、上手く取れていないのかもしれないわ。そういうものを読み取って、どう動くべきなのか。駿に必要なのは、相手への理解よ。まぁ、今はわからないだろうけどね」
確かに母親の言葉の全てを理解したわけではない。
それでも、茉莉花の推察を受け入れると、高松の中で薔薇子の行動に整合性が取れた。
これがカフェ『グラシオソ』殺人事件当日夜の話であり、高松の記憶に強く残った母との会話である。
高松の意識が薔薇子の隣に戻ると、歩行者信号の青が点滅し始めた。
まだ向こう側の歩道まで、数メートル残っている。
「薔薇子さん、信号が変わりますよ」
そう声をかけるが、薔薇子が走れないのは分かっていた。
大都会のスクランブル交差点というわけでもないので、信号が変わってすぐ、車が何台も走ってくるなんてことはない。
けれど、赤信号の状態で薔薇子を歩かせるのは危険だ、と高松は彼女の肩を抱いた。
「先に謝っておきますね、薔薇子さん」
そのまま高松は右手で薔薇子の肩を、左手で彼女の膝裏を抱え、歩道目掛けて走る。
突然のことに、反応しきれなかった薔薇子は、自身が『お姫様抱っこ』されていると、歩道に到着してから気づき、表情を強張らせた。
「・・・・・・高松くん」
「はい?」
「私の観測が正しければ、いや正しいけれど、キミは私の肩に触れてから『先に謝る』と言った。しかし、謝るべきことは『女性の体に勝手に触れたこと』だろう? ならば『先に』という表現は誤りだ。謝りの誤り、なんて陳腐なジョークのつもりかい?」
「そんなつもりはありませんよ。それに赤信号のまま、薔薇子さんを歩かせるわけにはいかないし、緊急避難ってやつです」
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