第36話 『いい先輩』

 一瞬高松は、自分が薔薇子のことばかりを考えていたせいで見えた、鮮明な幻覚かとも思う。

 だが、一瞬で現実だと思い知った。


「どうしたんだい、高松くん。仕事中、美女に見惚れている時間なんてないはずだ。それも仕方がないほどの美女だけれど、薔薇子さんはね。ふむ、中々似合っているじゃないか、緑のエプロン。深めの緑は毬藻を思わせる」


 こんな言い方をするのは、間違いなく薔薇子本人である。


「ば、薔薇子さん。どうして・・・・・・」


 高松が彼女の名前を呼ぶと、片桐が不思議そうに眉尻を下げた。


「あれ、高松くんのお知り合い?」

「え、ええ、まぁ」

「もしかして彼女かな? それにしてもすっごく綺麗な子ね」

「いやいや、彼女じゃなくて」


 慌てながら答える高松に、薔薇子がジトッとした視線を向ける。


「何だい、高松くん。薔薇子さんが彼女じゃあ、不満なのかい? 心配しなくても私は気が遣える女なので、キミが『薔薇子さんは彼女です』と見栄を張っても、しっかり話を合わせてあげるよ。『いつも高松くんがお世話になってます』ってね」


 そんなことを言葉にしてしまう時点で、気を遣えてはない。そう思いながらも高松は話を進める。


「そんな嘘は言いませんよ。それより薔薇子さん、どうしてここに?」

「本を買いにきた、もしくはキミに会いにきた。そのどちらかだとは思わないのかい? ここは書店でキミのアルバイト先だろう、高松くん」

「・・・・・・人に質問するのがこんなに難しいとは思いませんでしたよ」


 高松が呆れ顔で言うと、薔薇子は心から褒め称えるように手を叩いた。


「素晴らしい気づきだね、高松くん。簡単に思えることほど実は難しい。そういうことだよ」

「そういうことじゃなくて。薔薇子さんが本を買おうとして書店に入ったら、偶然にも俺がいた、ってわけじゃないですよね?」

「当たり前じゃあないか。ここは確かに素敵な書店だけれど、今日は本を買いにきたわけじゃないよ」


 一つずつ話を進めなければ、薔薇子との会話は成り立たない。そう考えた高松は、丁寧に言葉を選ぶ。


「だったら、俺に会うためにここへ来たってことですよね。どうして、俺のバイト先がわかったんですか?」


 問いかける高松。すると薔薇子は、何でもないことのように軽い口調で答えた。


「忘れたのかい? 昨夜、言い当てたじゃないか。キミのバイト先は書店だ、と。その時点で、ここ梅原書店以外にはないと確信していたのさ。高校生である高松くんが平日に働くのは、夕方以降だろう。梅原書店の社員数を考えれば、定休日である木曜日と日曜日以外は働いていると推測できる。説明するまでもないが、今日は水曜日だ。以上のことから、本日十六時に高松くんは梅原書店にいる。そういうことだよ」

「そういうことだよって・・・・・・」


 改めて舌を巻く高松。自分のアルバイト先を書店だと推理していても、梅原書店以外にだって書店はある。その上、個人書店である梅原書店の社員情報など、インターネットにも掲載はされていない。

 驚きはしたものの、薔薇子の思考を全て理解するのは不可能だろう。高松がそう考えていると、片桐が感嘆の息を漏らした。


「なんか面白い子ね。えっと、薔薇子さん、だよね?」

「ああ、自己紹介が遅れてしまったね。私は王隠堂 薔薇子。気軽に王隠堂さんと呼べばいい」

「王隠堂さん、だね。私は片桐 茜。気軽に茜さんでいいわ」


 高松の知り合いということもあり、片桐は薔薇子に好奇の視線を向ける。言葉で高松を振り回している様が気になるようだ。

 二人の挨拶を聞いていた高松は、タイミングよく言葉を挟む。


「それで、薔薇子さんはどうして俺に会いに来たんですか?」

「随分なご挨拶だね、高松くん。それじゃあ、私に会いたくなかったように聞こえるが? いいかい、私だって傷つくんだぞ」


 こういう言葉を吐く時の薔薇子はずるい。そう高松は思う。普段の態度からは考えられないが、彼女は心の底から悲しそうな表情を浮かべていた。


「いや、会いたくないとかじゃなくって」


 弁解をしようと高松が身を乗り出す。すると二人の話を聞いていた片桐は、悪巧みでもしそうな顔で口角を上げた。


「高松くーん、楽しそうなところ悪いけど、今はアルバイト中だからね。時給が発生しているんだよ、この時間も」

「あ、すみません。そうですよね」

「優しいお姉さんとしては見逃してあげたいけど、梅原書店社員としては見逃せないのよ。だからね、今日はもう上がっちゃいなさい。どうせ十七時でシフトは終わりだったし、今日は他の作業もないから大丈夫よ」


 時刻は十六時を回ったところ。高松のアルバイト終了まではまだ五十分程度残っていた。そんな状況で片桐から早上がりを提案された高松は、慌てて首を横に振る。


「そういうわけにはいきませんよ、茜さん。バイトといえど仕事なんですから。俺にだって梅原書店員としての責任感があります」


 高松の主張を聞いた片桐は、ニヤけた顔でわざとらしく人差し指を左右させた。


「若いよ、高松少年」

「だから、茜さんと俺は二歳しか変わらないじゃないですか」

「書店員としての責任感も素晴らしいと思うけど、女の子を待たせるものじゃないよ。いいから先に上がりなさい」


 そう話す片桐の表情は、優しい微笑みに変わっていた。高松の『いい先輩』はさらに言葉を続ける。


「王隠堂さんは、わざわざ高松くんに会いに来たんでしょ?」


 片桐から問いかけられた薔薇子は、何故か不満そうの無言で頷いた。彼女の言動を予測できないのも、理解できないのも、今に始まった話ではない。

 高松は薔薇子の答えが『イエス』だと判断して、片桐の優しさに甘える。


「すみません、茜さん。それじゃあお言葉に甘えて、今日は上がらせてもらいます。ただ、何か作業があれば、俺に残しておいてくださいね」

「はいはい、わかったわよ。ほら、青春してらっしゃいな」


 どうにも、片桐の茶化すような表情に納得できない高松だったが、一日中頭から離れなかった薔薇子が目の前にいる。会話の機会が巡ってきたのなら、逃したくはなかった。


「ありがとうございます」


 高松は口角の上がった片桐に礼を言うと、ロッカールームにエプロンを置いて、店の前で待っていた薔薇子の元に急ぐ。

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