第58話 擦り減った靴底

 だからこそだ、と菊川警部は思った。いや、実際に言葉にしていた。


「だからこそだ。証拠が残っている可能性がより高いのは、時系列的に考えて、現在に近い場所。このカフェに残っていたとして、他のことを考えている前に消えてしまったらどうする。刑事の基本は靴底を擦り減らすことだ」


 菊川警部の反論を聞いた薔薇子は、自分の感性に全くそぐわない絵画でも眺めるような目で微笑む。


「涙ぐましい根性論だな、菊川警部。頑張ったから、努力はしたから、結果より経緯。そんな子ども騙しが許されるのは、少年漫画の世界だけさ。わかりきっているけれど、大人が教えてくれないことを私が教えて差し上げる。全ては結果なのさ。どれだけ頑張っても、被害者は生き返らない。遺族の心の傷は消えやしない。加害者に相応しい罰を与えることだけが、罪を救う。真に擦り減らすべきは、靴底じゃあないんだよ。神経と脳髄だ。さらに言えば、足を引っ張るだけの良心。どんな手段を使っても、犯人を追い詰めるという確固たる意志がなければならない。無駄なことに目を奪われるな。その場で最も輝くものだけを見つめ続ければいい。北極星は嘘をつかない。そして事件現場では、この王隠堂 薔薇子だけが北極星なのさ」


 必ず北を教えてくれる北極星を、真実に導く自分の比喩として用いるなど、『自信』という言葉では片付けられない。彼女には、見えているものが真実であるという『確信』がある。そうとしか思えなかった。


「それに」


 雄弁になった薔薇子の言葉は止まない。日本語が縦になって、長い雨のようにカフェ内で降り注ぐ。それは全て真実だ。


「先ほど私はこう言ったはずだ。『想像してごらんよ』とね。何も頭を過らなかったのかい?」


 その問いかけは菊川警部を通して、竹内刑事や制服警察官にも届く。だが、警察関係者は誰一人として、彼女の言葉の意味を理解していない。

 せっかく順に話しているのに、と言わんばかりに彼女は呆れた顔で溜め息を吐く。


「いいかい、菊川警部。タリウム粉末の処理方法をいくつか挙げてみたが、その先どうなるのか、と絞って考えてみればわかるだろう。たった一グラムで人の命を奪う猛毒だよ? ただ平和に生きているだけの『善良な一般市民』の口に入りでもしたらどうするんだい? そしてこの仮定は、現実的に起こりうる事象だ。その頃、キミたちは何をしていたか、といえば、カフェ『グラシオソ』で存在しないはずのタリウムを探し続けていた。無駄ってのは、それほど危険なことなのさ」


 想像してごらん。その言葉に続くのは世界平和でも愛でもなく、壮大な二次被害だった。

 人間の想像力は逞しく、その分忘れやすい。ただ想像しただけのイメージは、すぐに記憶から溶け出す。けれど、焼印のように、刺青のように、痛々しく植え付けられた想像はそう簡単には消えない。

 タリウムによる無差別被害を想像してしまった菊川警部は、履いている安物の革靴で地面を擦る。薄くなった底は、床の感触をかなりの感度で足に伝えた。その感覚は、自分がどれほど刑事という仕事に尽くしてきたのか、ある種誇りでもある。

 だが、そんなもの革靴よりも安い自尊心であり、自己憐憫という名の自愛だ。

 全ては結果。薔薇子の言葉が遅れて腹の奥に響く。


「・・・・・・どうすればいい。頼む、王隠堂さん。私たちに教えて欲しい」

「ふむ、感心な態度だよ、菊川警部。首から繋がった鎖を途中で切って私に託す。それこそ、捜査の第一歩だ。蕩けるほど甘いご褒美をあげよう。真実というご褒美を、ね」


 満足げな薔薇子は、菊川警部に歩み寄る。高松は胸の奥で妙なざわめきを感じていた。

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