第96話 風船の着地点

 自分の名前が書かれていることに驚いた高松は、配達員に声をかける。


「ちょ、ちょっと待ってください。これ、俺の名前なんですけど」


 もちろん、配達員は依頼された荷物を運ぶことを生業としているため、詳しい事情など知るはずもない。


「あ、そうなんですか?」


 返ってきた呆気ない言葉に、高松は内側から溢れてくる疑問に思考を支配された。

 どうして助手として自分の名前があるのか。そもそも何故、梅原書店の一角を選んだのか。薔薇子はこれまで事務所を持っていなかったのか。これから薔薇子は何をするつもりなのか。結局、助手で決定なのか。

 様々な疑問の中、高松は『薔薇子の助手、もしくは相棒になると決めた日』のことを思い出していた。

 カフェ『グラシオソ』殺人事件解決後のことである。

 と、ここで本来ならば回想シーンにでも入るところだろう。しかし、回顧するほどの記憶が高松にはない。

 勘違いのないように説明するが、記憶喪失というわけではなく、『これから共に探偵をしよう』と熱い握手を交わした後、薔薇子はあっさりと自宅に帰っていったのだ。

 おそらく高松の答えを得て、満足したのだろう。

 その後、警察署前で会った後も、具体的に探偵の話はしていない。

 ただ自分と一緒に事件に臨んでほしい。行動を共にしてほしい。終始そういった話である。

 確かに薔薇子にしては、曖昧な話をするとも思ったし、その場の熱に乗せられている感もあったが、高松自身も自分の記憶や薔薇子の正体についてどうしても知りたかったため、了承した。

 しかし、現実問題、高松は高校三年生であり、アルバイトもある。

 四六時中、薔薇子と居ることは難しい。

 つまりは、随分とふわふわとした話だった。まさかこんな形で地上に降り立つとは思ってもいなかった高松は、様々な疑問の中から咄嗟に一つの疑問を言葉にする。


「なんで俺の椅子と薔薇子さんの椅子でこんなに差があるんですか」


 付き合いが長く、高松の思考や疑問をある程度把握した片桐はクスクスと笑い、「そこ?」とコメントした。

 そんなことを配達員に聞いても意味がないし、一番の疑問でもない。

 結局、王隠堂 薔薇子の拠点は梅原書店の入り口から左側に作られてしまった。


「いいんですか、茜さんとしては」


 違和感のある空間を眺めながら高松が言うと、片桐は手のひらをユラユラとさせて退屈そうに答える。


「いいんじゃないの? 梅原さんの許可も出てるし、使ってないスペースだし。書店の中に探偵事務所があるなんて、ちょっと面白いじゃない。話題になってお客さんが増えるかもしれないわ」

「いや、茜さんがいいならいいんですけど・・・・・・というか、俺が助手としてカウントされてますけど、ここでのバイトがあるのに・・・・・・」

「ああ、そういえば、高松くんの雇用契約書を新しくしなきゃならないんだった」


 そう言ってから片桐は、どこからか雇用契約書を出した。


「俺の雇用契約書? 時給が上がるとかですか?」


 薔薇子が書店の一角を買い取ったことで、店主である梅原は大金を得たらしい。時給が上がる可能性は充分にある。

 だが、片桐は首を横に振った。


「残念。そんな好景気な話はありません。高松くんの時給が上がるのは、山口県の最低賃金が上がる時です」

「現実だなぁ」

「これこれ、『有事の際は高松 駿を王隠堂 薔薇子に貸し出す』って文言が追加されているだけよ」

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