第99話 LA VIE EN ROSE
ちょうど、そのような心境にあった高松に『そんな折』が訪れる。
自分の名前が記されたパイプ椅子に、細めた視線を向ける彼へと、片桐が歩み寄った。もちろん、物理的に。だが、精神的にでもあった。
「そうそう、ちょっと思い出してこれを借りてきたのよ」
気配なく歩み寄ってきた片桐の声に驚き、高松が体をピクリとさせている中、彼女は一冊の本を見せつける。
真っ白な装丁が施された高級感のあるハードカバーの本。その表紙には『LA VIE EN ROSE』と書かれていた。
高松は適切に読み上げることが出来ず、「エルエー、ヴィエ、エン、ローズ?」などと頓珍漢な言葉を吐いてしまう。
すると、片桐は笑いを堪えるように口元を押さえてから、「ラヴィアンローズ」と正しい読み方を教えた。
「ラヴィアンローズ?」
高松が聞き返す。
「フランス語で『薔薇色の人生』よ。そう訳されることが多いわ」
「で、これがどうしたんです? フランスの小説?」
「『で』じゃないわよ。高松くんが、意味を催促するように繰り返したから答えてあげたんでしょう? ほら、私の耳が感謝の言葉を聞きたいそうよ」
自分の返答が片桐の機嫌を損ねた。なんて、心配をするような関係性ではない。
高松は片桐がふざけているのだ、と理解し苦笑しながら「ありがとうございます」と返答する。
輪郭だけの感謝を受けた片桐は、満足げに言葉を続けた。
「これは小説じゃないわ。フランスの書籍でもない。日本のエッセイなの」
「エッセイ?」
「自分の意見や体験なんかを自由に書き綴ったものよ。随筆、随想、隋録、なんて言い方もあるわね」
「エッセイが何かは知ってますよ、俺だって。これでも書店員なんですから」
「ラヴィアンローズも読めなかった高松くんのくせに、生意気なこと言うじゃない」
日本語とフランス語の知識はまた別物だろう。
高松はそう思ったが、言葉にはしない。経験上、片桐に反論して良かったことなどないからである。
「それで、そのエッセイがどうしたんですか? 表紙に作者名も書いてないですけど。著者名か」
「だーから、高松くんが気にしていた『雲雀山 春宵』のエッセイよ。小説家『雲雀山 春宵』が唯一出している、小説以外の書籍。発行部数、千冊以下の超レア書籍なんだから」
蝶が薔薇から薔薇へ飛び渡るような空気感で、話が薔薇から薔薇に繋がっていく。
まず高松が疑問を持ったのは、『LA VIE EN ROSE』の発行部数についてだった。
「え、雲雀山 春宵ってかなり有名な作家なんですよね? そんな作家のエッセイが千冊以下しか刷られてないなんて、あり得るんですか。しかも、今より本が売れてた時代に」
「痛いこと言うわねぇ、『今よりも本が売れてた時代』か。そうなのよね、今は本が売れない時代で、書店としては頭が崩壊しそうなほど痛い話だわ。それでも私は、紙の本を手に取った時の感動と、ページを進める手の喜びが・・・・・・って、違う違う。質問に答えなきゃね」
私見を暴走させる手前で踏みとどまった片桐は、発行部数が少ない理由について答える。
「雲雀山 春宵が『私は小説家であり、エッセイストではない』と言ったそうよ。それでも書きたいことがあって筆を取ったんだって。でね、雲雀山 春宵の作家人生の中で一番売れていない本の発行部数が『千』なの。まぁ、新人の頃に書いた作品なんだけど、それよりも発行したくないって、『小説家のこだわり』みたいなものらしいわ」
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