第3話 高松と薔薇子3
ふと高松は考える。
確かに薔薇子が『事件』であると言う理由は理解できる。だが、可能性の範疇を出ない。断言できるほどの理由ではなかった。
それでも、数パーセントでも事件の可能性があるのなら、迅速に現場へと向かう理由にはなる。
ただこれは、あくまでも『事件ならばできるだけ早く現場に向かうべき』理由であり、『高松と薔薇子が現場に向かう』理由にはならない。
しかし、これまでの薔薇子の行動を見ていると、他人事を他人事だと看過し行動しないことがおかしいようにも思えてきた。
まだ警察車両のサイレンは聞こえない。もしもこれが事件であるならば、今のうちに証拠を消されてしまうかもしれない。犯人が逃げるかもしれない。
人の死。切迫した状況。薔薇子の自信。背中に触れる柔らかさ。様々な情報が高松の中で駆け巡り、ついにはその足を動かし始めた。
「あー、もう。あとで怒られても知りませんよ、俺は!」
高松は薔薇子を背負ったまま、阿部新川駅前ホテルの入り口へと走る。
その背中で彼女は嬉しそうな声を漏らした。
「さぁ、走れ高松くん。事実が真実である内に!」
二人がホテルの中に入ると、警察に電話をかけたあの中年男性がフロントマンと話をしていた。どうやら非常口等を施錠し、誰も外に出ないよう説得している。
ホテル前には目を背けたくなるような光景があり、宿泊客が出てくればパニックになりかねない。現場保存のためだ、と。
そんな会話の後ろを通り、高松は奥にある非常階段へと向かった。全ては薔薇子の指示である。
そのまま施錠される前の非常口を出て、コンクリートの質感がはっきりとしている階段を上った。夜の風が上から吹いてくるようで、夏前だというのに少し肌寒い。
阿部新川駅前ホテルは、薔薇子が先述していたように十階建て。大抵の建物は一つ上の階まで、十五段前後の階段で繋がっている。つまり高松は薔薇子を背負った状態で百五十段前後上らなければならない。
いくら薔薇子の体重が軽いと言っても、人を背負った状態で走り続けるのは難しいだろう。当然高松は三階から四階の途中で息ができなくなり、足を止めてしまった。
「はぁ、はぁ、はぁ」
「どうした、高松くん。屋上まではまだまだあるぞ」
「ちょ、ちょっと休ませてください。一気に上るのは無理ですよ」
「私はね、高松くん。休むのは棺桶の中でいいと思っているんだ」
「吸血鬼ですか、薔薇子さんは」
思わず西洋風の棺桶で眠る薔薇子を想像してしまう。高松の想像上ではあるものの、薔薇子は肌が白く、はっきりした目鼻立ちをしているせいで、違和感がないほど似合っていた。真っ赤な薔薇で棺を満たせば、きっと美しいイラストのようになるだろう。
「私は吸血鬼ではないよ、高松くん。人間の血液を摂取することはないし、十字架を恐れはしない。ついでにニンニクが弱点でもないね。これが私の推理、何か意見はあるかい?」
「薔薇子さんは名探偵ですね」
「ああ、私は名探偵なんだ」
どうやら薔薇子には嫌味の一つも通じないらしい。
呆れた高松がため息を漏らす。それと同時に遠くから、連続する高音が響いてきた。
「薔薇子さん、サイレンが聞こえますよ。この音は警察です。思っていたより早くて良かった」
「ああ、そうだね、警察だ。そして良くはないのさ、高松くん」
「良くない?」
「警察はまず、遺体を調べるだろう。そこから事件性を判断するまで、多少時間がかかる。それから目撃情報を募り、ホテルの中まで捜査の手を伸ばす。見落としの少ない丁寧な捜査ではあるが、時間がかかりすぎるだろう。犯人が証拠を消し、逃げる時間を産んでしまうんだ。それも警察が来たとサイレンで知らせながらね」
彼女はそう言ってから高松の肩を叩く。
「さぁ、休憩は充分だろう、高松くん。屋上へ急ごうか、悪意の香りが落ちる前にね」
不思議な魔力だ、と高松は思った。魅力というよりも魔力。本当に吸血鬼なのではないか、と疑ってしまうほど、薔薇子の言葉には心を動かす何かがあった。逆らえない魔力のように。
非常階段を上り続ける高松。その背中で薔薇子は考え事をしている様子であった。思考が言葉となり、高松の耳元で吐息と共に漏れる。
「遺体を見る限り、被害者は三十代半ばから四十代の男性。計画的な犯行であれば、背から落とすことはしないだろう。つまり突発的な犯行である可能性が高い。加害者に犯行を隠匿する意思がなければ、まだ屋上にいるかもしれない」
そんな言葉が耳にかかり、高松はくすぐったくなる。
「人が、駆け上っている時に、何を、ぶつぶつ、言ってるんですか」
「状況の整理だよ、高松くん。悪意の積み重ねが罪であるように、情報の積み重ねが推理である。これは私の言葉だ」
「薔薇子さん、それは偉人の名言を借りる時の話し方ですよ。それで、情報を整理して何かわかったんですか?」
高松はそう問いかけると同時に、八階の踊り場を通り過ぎた。
もう時期に屋上が見えてくる。
「性急だな、高松くんは。まだ何もわからないさ。だからこそ、刺激されないかい? 心の内側で渇きを感じる知的好奇心がね」
「知的好奇心って、そんな。人が死んでるんですよ。不謹慎じゃないですか」
「ああ、いつだって好奇心は不謹慎で、ふしだらで、節操がないものだよ。脳髄を溶かしてしまうほど甘い誘惑。人はそれに逆らえない。今度高松くんにも教えてやろうか、人間の歴史と好奇心の関係を」
「不謹慎なのは、薔薇子さんですよ」
「何を言っているんだい、高松くん。薔薇子さんは全年齢対象だよ」
薔薇子が訳のわからない言い回しを終えたところで、ついに高松は階段を上り終える。
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