第33話 切り離された時間

 人生の中には『切り離された時間』が存在する。非日常を感じ、どこか現実味のない時間。感動を覚えた映画のように、心に残り続ける思い出だ。

 高松にとって薔薇子と出会った夜は、色褪せない物語のようであった。

 日常に戻りいつも通りの朝を迎えても、高校に通い授業に集中しても、放課後のアルバイトに励んでも、薔薇子のことが忘れられない。


「高松くん? 高松くん!」


 何度か呼ばれ、ようやく高松は声に気づいた。時給が発生している時間だというのに、他のことを考えていた自分を反省しつつ、高松は振り返る。


「あ、はい、すみません」

「ぼーっとしてどうしたの。大丈夫? もし体調が悪いのなら言ってね」


 高松の先輩、片桐 茜が眉尻を下げて高松の顔を覗き込んだ。彼女の存在が、高松に『アルバイト中』であることをはっきりと意識させる。


「いえ、大丈夫です。ちょっと考え事をしてて」


 そう答えると片桐は、自分の前髪に触れてから小さく頷いた。


「それならいいけど、無理はしちゃ駄目だよ。何かあれば、すぐお姉さんに相談してね」


 いい先輩だ、と高松は再確認する。

 阿部新川駅から徒歩十分。人気の少ない商店街の中にある『梅原書店』、ここが高松のアルバイト先だ。普段、店主の梅原は顔を出さず、唯一の社員片桐が店を回していた。小さな書店だが、新刊から古本、古書まで幅広く取り揃えており、本好きにとってなくてはならない隠れた名店となっている。

 とはいえ平日の夕方は客足が少なく、今も高松と片桐しかいなかった。

 

「お姉さんって、茜さん二十歳ですよね。二歳しか変わらないじゃないですか」


 軽く笑いながら高松が言い返すと、片桐は少し下がった眼鏡の位置を直しながら唇を尖らせた。


「二歳の差は大きいよ。もう私はお酒が飲める歳だからね。それに二歳も違えば、焼きそばパンを買いに行かせることだって可能だよ」

「パシリじゃないですか。そういうの嫌いなので、誰に言われても買いに行きませんよ」

「高松くんは相変わらずだなぁ。別に買いに行かせないよ。私はいい先輩だからね」


 片桐の冗談が優しさであることを高松は知っている。おそらく彼女は、深刻な表情で考え事をしている高松を気にかけ、笑わせようと冗談を言ったのだ。

 芯が強く、底抜けに優しい。片桐はそんな女性である。

 元々、梅原書店は二年前に閉店するはずだった。店主の梅原が高齢になり、店に立つのが難しくなったためである。そこで客だった片桐が『私が店を続けるから閉店しないでくれ』と頼み込んだ。読書好きな彼女にとって、梅原書店は幼い頃から通っている大切な場所だったのである。

 大切なものを守るために彼女は大学を辞め、今に至る。

 そんな片桐の口癖は『本は良いよ』だ。何かにつけて高松に読書を勧める。


「いい先輩ついでに言うと、難しい顔をしている時は、笑える本を読むといいよ。もしくは軽く読めるエッセイとか。他人の人生に触れて、新しい価値観に出会うと難しく考えていることが、実は簡単だったと思えるかもしれないしね。私のおすすめはね」


 そう言ってから本棚に向かう片桐。制服である緑のエプロンを翻し、離れていく彼女の背中に高松が声をかける。


「茜さん」

「どうしたの? エッセイより小説がいい?」

「そうじゃなくて、聞きたいことがあるんです。雲雀山 春宵って作家を知ってますか?」


 色濃く記憶に刻まれた作家のことを、片桐に尋ねてみた。すると彼女は、考える素振りもせずすぐに答える。


「私が好きなのは『二人の終末』かな。『青と群青』なんかもお勧めだよ。最初に読むなら、短編集『その名前』がいいかもしれない。それに収録されてる『炭鉱が死んだ日』が私のお気に入りなの。えっと、古本のコーナーに何冊かあったはずだよ」

「有名な作家なんですか?」

「そりゃ有名だよ。個人的な感想になるけど、最高の作家の一人じゃないかな。文壇に咲く薔薇なんて呼ばれてたしね」

「文壇に咲く薔薇?」


 高松が反応したのは『薔薇』という単語だった。薔薇子の口から出てきた作家の名前が、薔薇につながる。偶然なはずがなかった。


「雲雀山も春宵も薔薇の名前なんだよ。それで文壇に咲く薔薇。恋愛、ホラー、ミステリー。ジャンルを選ばず、リアリティがあって色彩豊かな艶っぽい作品を書く作家だね。残念ながら六年くらい前に亡くなったけど。新作を楽しみにしてたなぁ」


 姓名どちらにも薔薇の名前をつけているということは、おそらく雲雀山 春宵はペンネームなのだろう。自分の名前に薔薇の名前をつける作家。

 片桐の話を聞いた高松は、昨夜のことを思い出していた。

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