第80話 薔薇子さんのことを教えてください

 いつだって現実を突きつける言葉は、冷たさを纏っている。

 薔薇子の言葉を要約すると、高松が心を痛めることに意味はない。そういう話だ。

 結局、大塚 誠を毒殺したのは岸本 愛美。俗な言葉で表現するのならば、本命の彼女というやつだ。薔薇子の推理通り、大塚に最も執着している者である。

 何が岸本に殺意を抱かせたのかはわからないが、事実として彼女が大塚 誠を殺害した。

 カフェ『グラシオソ』で発生したかのように思われた事件は、カフェの外で解決。言葉にしようのない後味の悪さが、胸の端に残る。

 警察官数名が事件の後処理をするために、カフェ内の清掃や居合わせた者と会話をする中、高松は薔薇子の隣に座り、自分の掌を眺めていた。

 何も掴むことができなかった。

 漠然としたそんな思いが、彼の中で生まれ始める。


「統計学だよ」


 突然、薔薇子は高松にそう言った。

 彼女の声は、ちょうど聞き取りやすい高音で、事件さえ絡んでいなければ心の落ち着く音楽のようである。


「統計学?」


 言葉の意味はわかるものの、意図がわからず高松は聞き返した。

 すると薔薇子は、右の口角を上げ得意げな表情で言葉を続ける。


「諸説あるがおよそ五千年前、紀元前から手相ってものは研究されている。長い歴史の中で、膨大なデータが重ねられたものなのさ。つまりは統計学。生命線が長ければ長生きする、ではなく、長生きした者の多くは生命線が長かった、という話だよ。たとえキミの手に、どれほど悪い手相があろうとも、不幸になるとは限らない。気にすることはないよ、高松くん」


 いきなり手相の説明をされた高松は、自分が掌を眺めていたせいで薔薇子に勘違いをさせたのだと気づき、首を横に振る。


「違いますよ。こんなタイミングで、自分の手相を見て悲観しているわけないでしょう。それに俺、手相には詳しくないですよ」

「高松くん、日本語は正しく使いたまえ。それでは手相以外の何かには詳しいように聞こえる。キミは一体、何を知っているのかな」


 先程までは薔薇子が、呆然としていた自分を励ましてくれている、と思っていた高松。だが、『やはり薔薇子は薔薇子だ』と思い直してから、目線を自分の足元に向ける。


「・・・・・・何も知らないな、と思ってたんですよ。俺は何も知らない」


 世の中には複雑な男女関係があることも、人が人を殺す感情も、毒の種類も、高松は何も知らなかった。目の前で人が亡くなったというのに、傍観者でしかなかったのである。

 もちろん、世の中にいる人間の大半は傍観者だ。世界の裏側で何が起きているのか、知りもしない。それでも高松は、無力感を感じていた。

 薔薇子の足になる。そんな気持ちさえ、無駄なのかもしれない、と。

 そして最も高松に『無知さ』を感じさせているのは、他でもない薔薇子だった。

 自分は薔薇子のことを何も知らない。彼女がどうして探偵をしているのか。何故、阿部市内で起きた事件に首を突っ込むのか。菊川警部との関係。

 高松自身の記憶に残る微かな違和感。

 自分が何を知らないのかすら、高松にはわからなかった。

 そんな高松に対し、薔薇子は無表情を向ける。


「知らないことよりも、知らないことを知らないことの方が罪深い。無知の知さ」


 それって、と高松は知識の引き出しから言葉を取り出した。


「ソクラテス、でしたっけ」

「その通りだよ、高松くん。古代ギリシアの哲学者、ソクラテスだ。無知の知、あるいは不知の自覚ともいわれる。これは物事を考えるための第一歩。自分が無知であると自覚しているからこそ、安易に自分を主張しない。相手を尊重することができる。キミらしいな」


 そう説明する薔薇子は、何かを懐かしむような優しい表情を浮かべていた。その表情は一日の努力を労う夕日のように温かい。

 そのまま薔薇子は「それで」と言葉を続けた。


「一体、何を知ればキミは納得するんだい?」


 物事にはタイミングというものがある。満腹の時に決意するダイエットなど、簡単に折れてしまうだろう。それに対し、空腹時に決意できたダイエットは意思が固い。

 何よりタイミングに重要なのは、逃さないことだ。

 高松にとって、今がその時であった。


「薔薇子さんのことを・・・・・・あなたのことを教えてください」

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